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47:ヒサト・メンゲレ
「よくぞご無事で」
白衣を羽織った短躯の老人が、安堵のため息を漏らす。
「心配をおかけました」応え、老人の肩をつかむムラト。「予定どおり、手はずはすべて整えていますか?」
「ええ、ええ、すこしばかり手間取りましたが、遺漏はありません」
銀縁の丸眼鏡を中指の腹で押し上げ、老人は不器用に笑みを浮かべた。その後ろには、先刻の引き渡しの際にムラトが引き連れていた四人の軍服姿の男たちが控えている。それぞれの両手におなじ機関銃を携えているが、その銃口をハナコたちへと向ける素振りは見せない。
「彼らを本当に信用してもよろしいのですか?」
その中の一人、アゴヒゲをたくわえた壮年の軍服が警戒心を眉根に浮かべて訊いた。
「心配ない。彼女たちの意思も同じだ」
応え、ムラトが振り向いた。
「紹介が遅れたが、彼は〈赤い鷹〉本部警備隊長のガリイ・デン」
ムラトの紹介にアゴヒゲ――ガリイが頷く。
「それで、あのじいさんが――」
「そう、ヒサト・メンゲレ科学兵器開発班長だ」
この男が、とハナコは思う。
秘密研究施設の映像では、その後ろ姿しか確認できなかったが、こうして対峙してみると、シワだらけの瞼でせわしなく瞬きをくりかえす腺病質な老人は、あの恐ろしい〈ピクシー〉の開発や〈プロジェクト・アリス〉の主導者だったとはとても思えないほどに矮小な存在に見えた。
ムラトと年の頃は同じくらいなのだろうが、その佇まいがあまりにもちがう。一分の隙もなく身だしなみを整えているムラトとは対照的に、ヒサト・メンゲレはうしろ頭にできた寝癖すら気にしていない様子だった。
だれが言ったかは忘れてしまったが、バーで聞いた「科学者は白衣を着た世捨て人である」というブラックジョークはあながちまちがっていないのだろう、とハナコは思う。
「その肩書きは、あまり好きじゃありませんな。わたしはただのヒサト・メンゲレ。わたしを呼ぶときはメンゲレ、あるいは、博士でけっこう」
わざわざ呼称を訂正したヒサトが、そこでようやくアリスへと視線を向けた。
「頭痛は?」
アリスは訊かれたことに驚いた表情をつくり、「少しだけ、山で〈ピクシー〉に会ってからずっと」おずおずと応えた。
「やはり、力は未だ安定していないようだな」ハナコを見やるヒサト。「君たちの話では〈ピクシー〉の殺害に成功したようだが、そのときに使用した力の反動でアリスの脳の一部、〈干渉瘤〉近辺に反動がきているようだ。ムラト殿、取り急ぎ〈マッド・ハッター〉を」
ヒサトに頷いたムラトが、目顔で「ついてこい」とハナコたちをうながし、歩き出した。
しばらく進み、突き当たりの搬出入用のエレベーターへ共に乗り込むと、
「スズキは、大人しく従ったのか?」
と、ヒサトがガリイに訊いた。
「少しの抵抗はありましたが、計画どおり武装解除中に事を進めたので手間もかからず、幸いなことに一人の負傷者も出さずにすみました」
「何よりだな。説得に応じてくれればいいのだが」
ヒサトがため息をつくのと同時に到着のベルが鳴り、エレベーターのドアが物々しく開いた。
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