ホテル従業員の男

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ホテル従業員の男

 ホテルの制服を着た男はラウンジを見渡した。  窓際の白い椅子に腰掛け、小柄で肉付きの良い中年女性が、彼に向かって軽く手をあげた。向けられた行動に反応して、注文表を持って席に向かう。  スローテンポの甲高い声で、中年の女性は男にアイスコーヒーを注文した。男が席から立ち去ろうとすると、お待たせ、と、土曜の朝に見かけた女がラウンジに入って来た。歳は若くはないが、スタイルが良い。くびれはくっきりとし、化粧も行き届いていた。 「あ、私はホットで」 男は女からの注文を受けて、かしこまりました、と丁寧に返事をした。二人の女が座る席から背を向けて、コーヒーの準備のために奥のドリンクカウンターに向かうと、男の背中越しで言葉が交わされ始めた。 「ごめんね、雅人の相手させて。気持ち悪いでしょ?」 「いいの、いいの。男なんてみんな一緒。雅人はお金くれるから問題ない。はい、これ、沙織の分ね」 「あ、ありがとう。助かる〜」 「こちらこそ、いつも良いタイミングで沙織が連絡してくれるから助かってるよ。それに、柔軟剤の匂いとかネクタイのセンスとか雅人を通して沙織のセンスに触れられるから、全然平気だよ。沙織のセンス好きなんだよね。まぁ、沙織の事が1番好きなんだけど」 「私も円香の事、好きだよ。感謝もしてる。でも、柔軟剤の匂いとかネクタイ見て私の事思い出してるの?」 「そうよ〜、沙織は私のことが1番好きなのに、自分は沙織を騙して浮気をしてる、養ってやってるみたいに勘違いしてる雅人を見て楽しんでる部分もあるしね」 「良いスーツ着せて、出世させてお金稼いでもらって、どんどん私たちに流して貰わないと」 「そう、それを感じてさすが沙織ってなってるよ」 「円香はいい性格してるね」 「沙織も負けてないよ」 小柄の中年の女性は、ふふふ、と笑って楽しそうに告げた。 「この場所で円香と雅人が待ち合わせするから、あいつ近寄らないだろうし。この場所、私達の逢い引きの場所でもあるよね」 「雅人だけだよね。気づいてないの。バカみたいだよね」 「言えてる」 男は2人に注文されたアイスコーヒーとホットコーヒーを準備した。 「今日も僕はお金の為に働きますか、ね」  男はニヤニヤとした笑顔を浮かべ、手を取り合う中年女性を見つめた。 ロマンスグレーの男、小柄で肉付きの良い中年女性、顔が美しくスタイルの良い女性。 三人の関係は実に面白い。  そして、他人である男にとって、その関係は金を稼ぐ仕事上での最高の娯楽であった。  注文の入ったアイスコーヒーとホットコーヒーをトレイに乗せて、男は二人に近づいた。二人は会話に夢中。 「早く二千万ぐらい貯まらないかな」 「二千万いくかなー。最近羽振り悪いし。どうせなら退職するまで働けるだけ働かせて、借金もたんまり作らせて」 「いいね。そして、浮気の証拠を突きつけて」 「泥沼離婚?」 「やぁねぇ。泥沼じゃないわよ。円満離婚。だって、浮気する男が悪いって決まってるんだから」  男はその会話に聞き耳を立てながら、ほくそ笑んだ。  この会話を録音して、ロマンスグレーの男性に聞かせたらどのような事が起きるのだろうか、この情報には一体どれだけの値がつくのだろうか、と期待に胸が弾む。  自分も、金がないからここで働いている。できるならホテル以外の仕事でも良いが、まさかこんな目の前に金になるネタが落ちているとは思ってもなかった。 「ーーー失礼します」  男は二人の会話の途切れ目で声を掛けた。  顔には先ほどの企みを持った顔ではなく、爽やかなホテル従業員の笑顔を浮かべている。  男は二人を隔てる机の上に、アイスコーヒー、ホットコーヒーの順で、あまり音が響かないように、ゆっくりと丁寧に注文の品を置いた。
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