0人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
駅に程近いところにある美容室、
そこで仕事の準備をする一人の女性がいた。
彼女の名前は吉岡和美。
この美容室のスタッフだ。
腕は確かでお客様からの評判も上々。
なによりセットが終わった後の
「お似合いですよ」
という言葉の後の笑顔が好評だ。
そんなある日、初めて利用するお客様の予約が入り、
和美が担当することになった。
来店したのはロングヘアの明るい服を着た女性で、
オーダーを受け付けると鏡に向き合って席に座った。
話好きな性格らしく会話が弾んだ。
「私、もうすぐ結婚式なんですよ。
ネットでこちらの評判を見て、セットして頂こうと思って」
慶事を控えた女性の声はどこまでも晴れがましい。
「うわー。それはおめでとうございます。本当に良かったですね!
ネットで当店のことを知って、
わざわざお越しくださり本当にありがとうございます」
和美は笑顔で祝福した。
「彼と出会ったのはコンサート会場で、
誰かの紹介とかじゃなく、まったくの偶然なんです。
知り合いが行けなくなったチケットをもらって、
そこで隣の席に来たのが彼だったんですよ」
「え~そうなんですか。
いいですね。ほんとこういうのは巡り合わせですね」
相槌を打つ。
その間も休みなく手を動かし続ける。
チョキ、チョキ、チョキ…
「彼の趣味は登山なんです。
すっごく高い山に登るんですよ。
私は登らないから、彼が遭難したりしないか凄く不安で~」
「あー。それは心配になりますよね」
和美は返事をしながら、ふと過ぎ去った過去を思い出した。
だがすぐ打ち消すと仕事に集中した。
「音楽はジャズが好きなんです。
私は普段洋楽とか聴かない人なんですけど、
最近彼と一緒に聴くようになったんです。」
「ヘー。いいですね」
基本的に邦楽ばかりだった和美が、
有名なジャズプレイヤーの名前を覚えて、
名演を聴くようになったのはいつの頃だったか。
「彼、今年で30歳になるんですよ~」
和美の胸中に数年前別れた元カレの顔が思い浮かんだ。
打ち消そうとしたが打ち消せなかった。
嫌いあったというよりも、
お互い多忙で人生の中において
ウェイトを置くものが違った、としか言えない二人だ。
「あーそうだ。私もうすぐ苗字が変わるんだ。
今度来る時はメンバーズカードの名前も変更しないといけないですよね。
夫の苗字は「水野」って言うんですよ」
確信した。
カットが終わった。
「お疲れ様でした。どうぞ鏡でお確かめください」
お客の女性は鏡で仕上がった髪型を確認した。
何も知らない彼女は無邪気な口調で
「どうです、似合います?」
と尋ねた。
和美はこみ上げてくる複雑な感情を押し殺して、笑顔で答えた。
「お似合いですよ」
最初のコメントを投稿しよう!