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「それで?いつからだっけ。」
薄い茶色のテーブルには白のマグカップに注がれたコーヒーが湯気を漂わせていた。真ん中には花瓶が置いてあり、透き通るガラスにラベンダーが立っている。苦味と花の香りが混じり合ってリビングに漂っていた。木目調の小さなアイランドキッチンの向こうで美由紀は自分用のコーヒーを淹れていた。数年使っている黒いドリップマシーンから移したコーヒーをマグカップに注ぎ、さらに香ばしい匂いが加わった。角砂糖を一つ、黒い水面に沈めて美由紀は振り返らずに言った。
「もう4年かな。結婚して5年になるから、もうほとんどしてないよ。」
銀色のスプーンで角砂糖を溶かし、味が整ってから受け皿に置いてキッチンから出る。妹の優里の反対側に座り、美由紀はため息をついた。
「私が悪いのかなぁ。」
頬杖をついてレースカーテンで仕切られた窓を見た。6階からの景色で西武池袋線の黄色い車両が石神井公園駅に吸い込まれていく。結婚した当初は田舎の雰囲気があって好んでいたが、都市開発の影響もあって大規模な改装が行われ、石神井公園駅は立派な駅ビルのようになっている。窓から差し込む柔らかな光が目を癒してくれた。優里は両腕をテーブルについて少し身を乗り出した。
「お姉ちゃんは悪くないでしょ。仕方ないことなんじゃない?誠一さんだってあんなことがあったんだから。」
分かってはいたが、それでも美由紀は責任を感じていた。引き金が別だとしても、旦那を追い込んでいるのは自分なのだろう。マグカップに口をつけ、甘さと苦味が混じり合った液体を流し込んだ。薄く口紅の痕が付く。何のために塗ったんだろう、些細なことも美由紀は引っかかるようになっていた。
「あ、私そろそろ行かないと。」
白いニット生地のタートルネックは首元だけ別物のように離れており、首輪のようだった。短冊のようなスカートは水縹色を薄めたようで、踝まで伸びている。前腕にはグレーのファーが付いていた。優里は立ち上がってスカートの裾を直している。美由紀はマグカップを両手で抱え込むようにして言った。
「大学は順調?」
「うん。ぼちぼちね、じゃあまたね。」
22歳になる優里は都内にある大学に通っている。顔が瓜二つで、彼女と晩御飯を食べるために迎えに行った際、彼女の友人から親しげに話しかけられたことがあった。優里の姉だと説明した時に見た男子大学生の慌てふためく表情は、今思い出しても笑ってしまう。
アイランドキッチンの横をすり抜けて、優里は暗い廊下へ溶けていった。扉が開いて細い光が差すも、すぐに消えてしまった。まるで今の自分みたいだな、そう心の中で呟いて、渇いた笑いがリビングに響いた。
金田誠一と出会ったのは会社だった。清掃会社に勤めていた彼女の職場に宅配水業者だった彼が営業で訪れ、何気なく話しているうちにお互いが同じロックバンドを好んでいることが分かり、意気投合したのだった。
何度かデートを重ね、2年の交際期間を経て婚約。彼が営業職から販売促進イベント企画の部署に入ったタイミングだった。
そして、旦那とセックスレスになって4年が経った。原因は誠一の母、順子の急逝だった。
誠一の父は女癖が悪く、頻繁に不倫を繰り返していた。何度も耐え忍んできた順子は誠一に言い聞かせていたという。セックスは不潔なものだ、下品な行為である。誠一とまだ交際中に、自分は親父のようにはならないと、缶ビール片手に彼は話していた。
順子の死がきっかけで誠一は塞ぎ込んでしまった。早くに父と離婚した母は女手一つで彼を育て、お互いに愛情が深かった。結婚して1年経っても週末には実家へ連絡を入れるほどで、その関係性も美由紀は好きだった。
虚血性心疾患。美由紀は気を遣ってヒレ肉やもも肉、大豆製品をふんだんに使った料理を心がけるようにしたが、その気遣いも重く感じてしまっているのかもしれない。
もう一つ自分を責める要因は、美由紀の性欲である。経験人数こそ少ないものの、相性の良いセックスが好きなのだ。誠一と交際を始めて数ヶ月、初めて繋がった時はその相性に涙を流してしまいそうだった。
しかしセックスレスになって4年。今では毎晩自慰行為をしないと眠れない体になってしまっていた。そんな自分に嫌気がさすようになり、美由紀自身も若干鬱ぎ込むようになっていた。しかしこれでは誠一にも申し訳ないと思い、明るく振る舞うようにしている。
リビング脇の寝室に向かい、全身鏡の前に立った。美由紀はもうすぐで30歳になる。そろそろ老いが始まってしまうと考えていた。
腰にリボンが施された白いゴムパンツを脱ぎ、薄いピンクのフリルシャツを脱いだ。黒いレースの下着はかつての勝負下着だった。誠一もこの姿で求められた際は、すぐにペニスを硬直させていたものだ。獣のように自分を求める誠一の、どこか焦ったような表情を思い出す。
「また濡れちゃった…。」
薄暗い寝室で、4年前に見た彼の顔を思い出して、美由紀は薄く濡れた。
大きなアーモンドのような、目尻の尖った瞳。すらっとした鼻筋に薄い唇。自分ととても似ている優里を見ていても、自分は美人の類に入るのだろうと思っていた。ただ年には勝てない。化粧で誤魔化してはいるが、最近豊麗線が少し目立つようにもなってきたのだ。
乳白色の腹部に手を置き、ショーツの中に手を滑り込ませる。整えている陰毛の先にある陰核は既に膨らみを見せていて、中指の腹を押すだけで全身に電流が走るようだった。
その下へ進むと、熱い粘液が中指を迎えた。自分でも恐ろしいほど感じているが、まだここではない。膣口へ指を進めて温い沼に沈んだ。自然と声が漏れてしまう。
「はぁ…んっ。」
全身鏡の前で美由紀は感じていた。左手を胸に伸ばし、ブラジャーの真下へ滑り込ませた。既に硬くなった乳頭をつまんで転がすと、膣への刺激が強まった。
中指の第二関節を折り曲げ、ウィークポイントへと進む。彼女は奥のざらっとした箇所が好みなのだ。強く押し当て、優しく撫でる。肌の産毛を細かな毛でくすぐられているような感覚が全身を波のように駆け巡り、脳天と爪先にまで快感が走った。
指先を加速させ、粘液の音が寝室に響く。美由紀は常に準備万端なのだ。あとは誠一が求めてくるのを待つだけなのだが、それが難関なのである。だから自分で鎮めないといけないのだ。
言葉にすることなく、美由紀は指の速度を高めて絶頂を迎えた。内股になって体が少し痙攣する。左手は膨らんだ乳房を掴み、右手の中指を膣内に沈ませたまま、紅潮した自分の顔を見た。
「もうダメなのかな…。」
オナニーをして虚無感に陥るのも慣れたものだった。今自分がしているオナニーは語源通りなのかもしれない。自分を慰める、まさに自分の境遇と似ているのだろう。
膣から指を引き抜いて、彼女は脱いだ服を着た。正直なところ自分の美貌には満足していたのだが、誠一を見ていると自信が失くなってしまう。励ましているようで落ち込んでいく、迷宮に入り込んでしまったような感覚がして、美由紀はこの日一番の深いため息をついた。
キッチンに立ち、美由紀は晩御飯を作っていた。人参やアスパラガス、ほうれん草を一口サイズに切り、豚のバラ肉で巻いていく。爪楊枝で刺して固定し、鍋に溜めた水を沸騰させ、投げ込んでいく。全て入れ終わったら、醤油を二回し、コンソメのキューブを二つ投げ込む。ヘルシーかつ肉の味わいもあって、美由紀はこの料理を気に入っていた。
おたまで鍋をかき混ぜていき、キャベツの芯を切っている時だった。開錠する音が聞こえた。手についた水滴をエプロンで拭き取り、キッチンを出て廊下の奥を見る。スーツ姿の誠一はネクタイを緩めながら革靴を脱いでいた。
「あなた、おかえりなさい。もう少しでご飯できるから、お風呂先入ってていいよ。」
もう一緒に風呂に入らず4年が経つ。誠一の乳頭の色すら忘れていた。
誠一は細い目にすらっとした鼻筋、薄い唇をしていた。くしゃっと笑う彼の笑顔に見惚れたが、もうその笑顔を見ることはないのだろう。
リビングに入ってもなお、誠一は言葉を発することはない。上着を脱いでソファーに掛け、倒れるように座り込む。彼の会社の同僚曰く、普段は静かだが仕事の時には真面目になる、らしい。つまり彼の状態が仕事に影響はしていないそうだ。それだけは本当に良かったと感じている。家庭だけでなく仕事場にまで鬱に似た症状を持ち込んでしまっては、誠一の仕事がなくなってしまう。だからこそ美由紀は家では静かなままでいいと思っているのだ。ただ、一抹の寂しさは消えてくれない。
それから2人は無言のまま晩飯をつついた。何気なく流すテレビから聞こえるバラエティー番組の音声が虚しく響く。必要最低限の会話だけが、金田家が発する音なのだ。
飯を終えてからキッチンにこもり、油のついた皿を洗い落としていく。ソファーの方を見ると、誠一は自分で焼酎を作って口を湿らせていた。恋愛をテーマにしたドラマが画面に映し出されている。ドラマを見ているのか、視界にドラマが映っているのかは分からない。
花柄のエプロンを解いて、美由紀は風呂場に向かった。毎日のように淡い期待を抱いてしまう。むしろ否定する度に期待が高まってしまう、美由紀の悪い癖だった。
誰にも汚されない体を念入りに洗う。誠一に触ってもらいたい箇所を順番にボディーソープの泡で満たしていった。首筋、鎖骨、乳房と乳頭。緩やかな坂を描くくびれから小ぶりな尻、太ももから足全体を撫でて膣へ手をやる。ここ数年で体を洗っているだけにも関わらず愛撫されているような感覚に陥ってしまった。既に膣口から透明の糸が引いている。薄くため息をついて、シャワーヘッドから流れるお湯で自分がなぞった形跡を洗い流した。
体中の水滴を拭き取って髪を乾かす。自分のすっぴんは年相応のシワがあった。鏡の前で豊麗線をなぞり、ケアを始める。これも一体誰のために行うものなのだろうか。日常全ての行いが虚しく思えてしまった。
上下が淡いピンク色のパジャマを着て、美由紀はリビングに入った。電気こそ点いてはいるが、もうソファーに誠一の姿はない。中途半端に開かれた寝室への扉の奥に誠一の足が見える。無言のまま飯を食い、いつの間にか旦那が寝てしまっている。この状況が4年も続いているのだ。
ただ美由紀は離婚を考えたことはなかった。彼の現状を考えても今誠一から離れたら、彼がダメになるかもしれない。自分が少しでも明るく振舞わないといけないのだ。
ダブルベットの端で壁の方を向き、音を立てずに寝転んでいる誠一の真横に滑り込み、美由紀は彼の背中を抱きしめた。
「あなた、ダメ?」
自分でもなるべく媚を含めた言い方を心がけてはいる。しかしどれも効果はなかった。
「すまない、美由紀。今日もダメみたいだ。」
分かっていた。期待するだけ無駄なのかもしれない。ただそれでももう一度彼に抱かれたい。そんな思いがより2人を追い詰めているのかもしれない。誠一の体から離れると、彼はこちらを振り向いた。視線を合わせることなく、申し訳なさそうな表情を浮かべている。
「本当に申し訳ないとは思っているんだ。でも、どうも気分が乗らなくて…。」
「大丈夫。いつまでも待ってるから。」
なるべく優しい表情を取り繕い、美由紀は彼の頭を撫でた。ふわりとした彼の黒髪は触れているだけで心地良い。対面座位の際に彼の頭を撫でると、非常に喜んでくれたものだった。
トイレに行ってくるとだけ伝え、ベットから這い出る。4年も希望を抱く美由紀は、自分でも少し驚いていた。余程彼のことを愛しているのだろう、揺らぐことのない自分の思いがまだ正常である、その事実がこの生活を生きる糧になっていた。
便器の蓋を開けて、パジャマとパンティーを降ろす。ひんやりとした便座の奥に、彼女の膣から垂れる透明な液体が蜘蛛の糸のように落ちていった。誰も救えない、切ない糸。誠一のことだってそうだ。自分の手で何もできない。気付けばもう一つの透明な液体が目から零れ落ちていった。
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