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1.
水曜日の午後三時、駅前のカレー屋には客が入っていなかった。
さほど賑やかでもない郊外のこと、平日はこんなものであろう。
カランとドアベルを鳴らして入ってきた唯一の客へ、朗らかな挨拶が掛けられる。
「いらっしゃいませ」
「おう、野菜カレーを一つ」
客は迷わず注文を伝えると、カウンターの中央席に腰掛けた。
地味なスーツに身を包んだ、胸板の厚い男である。口許に皺が増えた年頃だが、日に焼けた顔は浅黒い。
カレー専門店へ訪れるのはこんな厳つい男も多く、店員の注意を引くようなことはない。
手際よく始まった準備を、客は黙って見守った。
野菜カレー、正確には“京野菜たっぷりのヘルシーカレー”は、この店の定番メニューとして人気を博している。
タウン誌にも取り上げられ、ネットでの評判も上々だ。具材は野菜だけながら、こってりと重層的な味わいが楽しめるのだとか。
さして待たされもせず、客の前に湯気の立つ皿が差し出された。
一般的なカレーに比べて、ほんのりと緑がかった色合いで、大胆にぶつ切りされたナスやニンジンがルーから覗く。
脂質を抑え、カロリーも低い。健康を気遣う人へという売り文句が、壁の貼り紙に躍っていた。
一口、二口と食べ進んだ客は、満足げに店員へと顔をあげる。
「何度食っても美味いな。野菜だけとは思えん」
「ありがとうございます、常連さんでしたか。お見逸れしてすみません」
「来たのは昨日が初めてだ。カレーは好きなんだが、この店は知らなかったよ」
客覚えに自信があった店員は、その答えを聞いて少し安心した表情を浮かべた。
彼は店の主任ではあるものの、オーナーでも店長でもない。昨日は非番で、店長とバイトの学生が客の相手をしたはずだ。
連日来てくれた男へサービスしようと、トッピングの高菜へ伸ばした手は、意外な客の言葉で引っ込められる。
「笠原征一郎さん、だね?」
「……私をご存じなんですか?」
怪訝そうに見返す笠原の顔は、突き出された手帳に光る記章を見てさらに顰められた。
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