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 水曜日の午後三時、駅前のカレー屋には客が入っていなかった。  さほど賑やかでもない郊外のこと、平日はこんなものであろう。  カランとドアベルを鳴らして入ってきた唯一の客へ、朗らかな挨拶が掛けられる。 「いらっしゃいませ」 「おう、野菜カレーを一つ」  客は迷わず注文を伝えると、カウンターの中央席に腰掛けた。  地味なスーツに身を包んだ、胸板の厚い男である。口許に皺が増えた年頃だが、日に焼けた顔は浅黒い。  カレー専門店へ訪れるのはこんな厳つい男も多く、店員の注意を引くようなことはない。  手際よく始まった準備を、客は黙って見守った。  野菜カレー、正確には“京野菜たっぷりのヘルシーカレー”は、この店の定番メニューとして人気を博している。  タウン誌にも取り上げられ、ネットでの評判も上々だ。具材は野菜だけながら、こってりと重層的な味わいが楽しめるのだとか。  さして待たされもせず、客の前に湯気の立つ皿が差し出された。  一般的なカレーに比べて、ほんのりと緑がかった色合いで、大胆にぶつ切りされたナスやニンジンがルーから覗く。  脂質を抑え、カロリーも低い。健康を気遣う人へという売り文句が、壁の貼り紙に躍っていた。  一口、二口と食べ進んだ客は、満足げに店員へと顔をあげる。 「何度食っても美味いな。野菜だけとは思えん」 「ありがとうございます、常連さんでしたか。お見逸(みそ)れしてすみません」 「来たのは昨日が初めてだ。カレーは好きなんだが、この店は知らなかったよ」  客覚えに自信があった店員は、その答えを聞いて少し安心した表情を浮かべた。  彼は店の主任ではあるものの、オーナーでも店長でもない。昨日は非番で、店長とバイトの学生が客の相手をしたはずだ。  連日来てくれた男へサービスしようと、トッピングの高菜へ伸ばした手は、意外な客の言葉で引っ込められる。 「笠原(かさはら)征一郎(せいいちろう)さん、だね?」 「……私をご存じなんですか?」  怪訝そうに見返す笠原の顔は、突き出された手帳に光る記章を見てさらに(しか)められた。
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