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第九章 時の架け橋
千恵子は横浜関内で小さな弁護士事務所を営んでいる。50代ではさすがに体型は崩れているが、心はシャープがモットーだ。
三月金曜日はいつもの仕事だったがお洗濯日和というやつだ。昼休みの散歩中、電気屋の前を通りかかると、ショーウィンドウの中のデモンストレーション用のTVの前に、人だかり。通行人が立ち止まって一斉に非難している。
「おい、この報道ひどすぎるだろ」
「何で被害者の親を糾弾してるんだ」
TVの中で、女性記者が最近有名になった一般男性、清川真司に容赦なく訊ねていた。
「安全だって、誰が決めたんですか」
「仕方がなかったんだ」
「答えてください。どうして安全だと思ったのですか」
「子供の言うことだから、まだ犯罪かわからなかったし」
「子供がどうなったらあなたは犯罪だって信じましたか?」
真司はむせび泣き始めた。真司の息子はいじめ被害に苦しんだ後、自殺未遂で重傷を負っていた。観ていた千恵子は息をのむ。
メディアが真司を守っているので知られていないが、真司は学校に行きたがらない息子、幸也を物置に監禁し、服従するまで竹刀で殴っていた。事件後、幸也は保護されている。
千恵子は若い頃いじめ被害者家庭の暴力についてメディアに訴えていた。
どのくらい危険なことか知っていたので女性弁護士数名で力を合わせた。
しかし結局、政治的な力が働いて、全員無き者とされてしまっていた。今は落ち目の弁護士である。
いじめ問題は、家庭、学校、警察、政治が成熟するまでは、大人の組織的児童虐待だ。教師がヒーローだったら解決する話ではない。
こののち、被害者家庭のドキュメントドラマが放映された。モデルは十中八九清川家だったが、次の自殺者を出さないために個人情報は伏せられていた。
いじめ加害者より、被害者親の方が怖い。
「学校に行けぇぇぇ!!」
「いやだぁぁぁぁ!!」
泣き叫ぶ被害者子供を親が竹刀で殴る。
視聴者から反感を買っているのに、同じようなメディアは続いた。世論と他のメディアがどう反応するか、千恵子は静観している。
東京で記者の仕事をしている美乃梨は黙っている女ではなかった。女優のような容姿はしていなかったが、彼女は顔だけのTV花形とは違う生き方をしていた。
彼女はジョーカーの報道部、芸術部と組んでドラマ原作を描いている源氏賞作家、南雲蘭に取材を試みる。50代の南雲より20歳も若いひよっこだが、なめられてたまるかと思った。しかし喧嘩を売るようでは記者とは言えない。冷静に勝ちに行く。
手続きを取って約束の金曜朝になる。美乃梨は南雲の自宅に赴き、面会した。来客用の和室に通され、二人向かい合って座る。和室の窓から、行き届いた美しい庭園が見えた。桃色の五月の花がキラキラとうるんでいる。
南雲は未婚で、無化粧、痩せてはいるが座る仕事をしているため体形は崩れていた。背中は猫背。一見、女を捨てた人のようだったが、燃え上がる癖っ毛とまなざしが、ある側面から見ると女戦士のようだった。
美乃梨は質問した。
「どうして傷ついた人を、更に追い詰めるのですか」
「子供が家庭に暴力の問題を持ち込んだ時点で、親子関係は被害者と傍観者の関係になります。傍観者は被害者を黙らせ、犯罪をなかったことにするためなら何でもする」
「そんな家庭ばかりではありません」
「報道で、被害者家庭の暴力問題をタブー視していると、子供は次々と死にますよ。だから私は原作を書きます」
6月の月曜日、千恵子は仕事の昼休み中雨降りを楽しみながら、おろしたての白い傘とレインブーツで商店街を歩いていた。今日は大好きな和菓子店の新商品、“時の架け橋”をゲットした。
アジサイを模した和菓子はたまに見かけるが、時の架け橋は色彩豊かな上に、その表面に銀の雨粒が光っている。雨粒は一体何だろう。砂糖菓子だろうか。もう食べるのがもったいない。事務所で楽しむ予定だが、今から夢いっぱいの気持ちである。
そばで誰かの声がした。
「先生」
彼女が素通りしようとすると彼は言った。
「千恵子先生のことです」
彼女は驚いた。先生なんて呼ばれたのは、もう何年前だろう。振り返った彼女の前で、蠱惑的な容姿の青年が青い制服姿で微笑している。
「僕、ジョーカー隊員の御門凪って言います」
その時乾いた突風が吹いて、雨は一度に止んでしまった。千恵子は和菓子の安全は死守したものの、彼女も青年もほかの通行人も、突然のことに傘を手放してしまった。町中の傘が色とりどりに空を舞っている。千恵子の足元の水たまりに、虹。
――のちに千恵子はジョーカー芸術部隊、ドラマ制作陣と手を組むことになる。
(終わり)
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