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第七章 洋子の世界
仁は洋子が力尽きて布団叩きを取り落としたのを確認した。現場にもう一度出て行く。小道具の水色バスタオルを片手に、彼女に訊ねる。
「気が済んだ?」
彼女が振り返る。
「あなた」
「また会いましたね。ジョーカー隊員、若鷺です。そしてあなたの前にいるのは幸助君じゃない。よく見て。うちの御門だよ」
洋子は甘い熱夢から自由になり、幸助と思った相手がそうでないことに気が付いたようだ。彼女の目の前で、凪が深い息をつきながらわき腹を抑えて座っている。演技中は感じないと本人は語っているが、終わったらそれなりに痛いだろう。
「私、私――」
うろたえた洋子に仁は優しく言った。
「落ち着いて。あなたは幸助君に危害を加えていないんだ。御門も仕事でやってる。誰もあなたを責めないよ。あなたをそこまで怒らせているのは何」
洋子の目が泳いだ。非難されるのを恐れているのだろう。
仁が待っていると彼女はおぼつかなげに安全を確認し、目を落として答えた。
「いじめが解決しない」
「どうしたらいいの」
「解決してほしいの」
「誰に」
「教師に」
「教師って誰」
「紀ノ川由衣」
仁は部屋の隅にあった椅子を中央に移動した。洋子を促して、二人で凪に背を向ける。仁は持っていたバスタオルを彼女に渡した。
「じゃあ、これ持って。今ここで紀ノ川をイメージして、椅子にタオルをぶつけながら、彼女に言いたいことを言って」
洋子は警戒心を解いて爆発した。
イメージの由衣に向かって罵詈雑言を吐く。
しばらくすると力尽きる。
仁は尋ねた。
「これからどうしたい?」
「いじめが解決しない」
「どうして」
「幸助が解決してくれない」
「じゃあ、幸助君をイメージして、さっきと同じように言いたいこと言って」
洋子が固まる。仁は言った。
「これは暴力じゃないんだ。イメージの幸助君だから、言いたいこと言ってもいいんだよ」
そこで洋子が爆発する。
イメージの幸助に罵詈雑言をぶつける。
しばらくすると力尽きる。仁は尋ねた。
「これからどうしたい?」
「いじめが解決しない」
「どうして」
「――私、人に頼ってばかりいる」
仁は穏やかに訊ねた。
「じゃあ、どうするの」
「幸助に会いたい」
「どうしたらいいの」
「――助ける」
仁はうなずいた。
「じゃあ、そうしよう」
洋子は異論を唱えた。
「そんなのおかしい。悪いのは教師と加害者でしょ」
「じゃあどうするの」
「責任を取ってもらう」
「それは相手がいないと成立しない幸せだね。あなたはどうなりたいの」
洋子はしばらく考え、悲しそうに訴えた。
「幸助と一緒にいたい」
「どうして」
「幸せだから」
「それも相手からもらう幸せだね。あなたはどうやったら幸せになるの」
洋子は小さな声でつぶやくように答えた。
「私、一人じゃ幸せになれないの」
「どうして」
「誰も愛してくれないから」
「愛さなかったの、誰と誰」
「お母さん」
「じゃあ、目の前に、お母さんをイメージしてみて。どんな感じ?」
こうして洋子の、長い長いカウンセリング期間が始まった。日本では親の子供連れ去りは誘拐犯罪とは見なされない。だから洋子が幸助をさらった後も親子関係は続く。洋子が望めば幸助は密会を断れない。
社会から糾弾された洋子は必ず幸助に復讐する。洋子に非があったとしても、幸助を助けるためには彼女をカウンセリングするしかない。
区切りがつくと、仁は洋子を他の隊員にあずけて凪の方に駆け寄った。
「急所外したか」
「外してるよ」
仁は仲間の隊員と一緒に凪のボディチェックをしてダメージを確認した。むっつりしている凪に応急処置した後、本部に戻る。
凪は普通に武装する時もあるが、役者をやったり舞台装置考えたりして、芸術を武器のように操る。成人男性だが子役、女役のできる希少な人材で、第三部隊の花形。ジョーカーには医療、報道、芸術方面の人材が多数所属している。
――数日後、洋子の被害者の一人、中松栞のカウンセリングも始まった。
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