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「あ…ッ!」
心の揺らめきと共に、伊織の足駄の前の歯が固雪を滑った。上体が大きく傾き、踏みとどまる間もなく後方へ倒れ込む。
だがその刹那、背中を厚い胸板の上に留められ、浮いた身体を両の腕で深く抱き込まれていた。
身に覚えのある、春の息吹の中に身を置くようなあたたかさ。
あの頃も転びそうになると、こうやっていつも伊織を支えてくれた。
有馬――…
伊織が弾かれたように面を上げると、つい先ほどまで頭に思い描いていた男の顔が間近にあった。
「相変わらずだな、橘」
白い息を吐きながら、掠れた声で男は言った。
実に、七年ぶりの有馬との再会。
伊織は逸る胸の鼓動と驚きのあまり、唇を戦慄かせる。
「今日は、急遽稽古が休みになったそうだな。さっき柳田先生に聞いてきた」
「………」
「—…あぁ、もしかして覚えていないか。有馬だ、有馬房之介」
有馬は伊織を見詰めると、懐かしそうに目を眇めた。
あの頃より顎が削げ、精悍さの増した面差し。
何時も一文字に引き結ばれていた口角は僅かに上がり、成熟した男の甘さが浮かんだ。
何故有馬がここに居る?
有馬はもう、俺の様な軽輩とは縁を切ったのでは無かったのか?
…心に思うことは、沢山あった。
しかし、突如名状し難い熱いものが込み上げてきて、伊織は言葉を失った。
「……ッ」
伊織の青ずんだ白目に膜が張り、それを眼にした有馬がハッとしたように目を瞠る。
互いに見詰め合ったまま押し黙り、二人の間を束の間の静寂が訪れた。
急に周りの音が遠くなる。
まるで絵巻物を後ろから読み解くように、伊織の記憶がゆっくりと蘇る。
『お前には迷惑な話かもしれないが、俺はこの根雪の坂を下るのが好きだった。お前を助ける口実に、存分に抱きしめられるから――』
『えっ…』
『橘、この三年間…そんな邪な事ばかり考えていた俺を、お前は軽蔑するか?』
有馬が道場を去る前日の、最後の稽古の帰りだった。
坂の途中で転びそうになった伊織を、背後から抱きしめながら有馬は言った。
あの時軽口を叩いてはぐらかした事を、伊織は今日まで幾度となく後悔した。
グルグルとあの日の事を思い起こしては、胸を熱くしたあと酷く落ち込んで。
そうしながらも、あの時はこうする他無かったのだ、と、自分を納得させる日々を重ねた。
その男が―七年ものあいだ伊織の記憶に留まり続けていた男が、いま目の前に居る。
伊織を見詰める、どこまでも黒い眸。
揺るがない、真直ぐな眼差し。
容姿は確かに大人びたが、有馬のこの眸の美しさだけは、あの頃と寸分も変わっていない。
「あ、あの時は…ッ!」
伊織が大きく息を吸った刹那、不意に有馬の着物袷から女の鬢付け油の匂いが鼻を突いた。
引き戻らされる、残酷な現実。
伊織は目を見開いたまま、頭を鈍器で強く殴られたような衝撃を受けた。
―馬鹿。俺は今更、何を言うつもりだったのだ
伊織は咄嗟に有馬から眼を逸らすと、白目に張った涙の膜を追い払う。そして、自身を背後から支える有馬の腕から素早く逃れた。
「たわけ。この俺が、嘗ての親友の顔を忘れるはずが無かろう。有馬…いや今は佐々木か。七年ぶりの再会がこんな無様な格好で、相すまん」
ぎこちなく伊織が笑うと、有馬は眼の前で手を叩かれたように目を瞬かせた。
「―――いや、それは別に構わん。…俺を覚えていてくれたのなら、良かった」
だが有馬が眸を揺らめかせたのも、ほんの一瞬だった。
もしかして、伊織の見間違いだったのかもしれない。
気付けば凪いだ眸に戻っていた有馬は、伊織を見て微かに笑った。
「そう言えば聞いたぞ。…おめでとう。この春やっと、佐々木様の娘御と祝言を上げるそうだな」
伊織は自身の袴を握りしめながら、ずっと用意していた祝いの言葉を口にした。
自分はいま有馬から見て、上手く笑えているだろうか?
小刻みに震える伊織の肩口に、赤い梅の花弁が一枚ひらりと舞い降りた。
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