再会

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再会

   低く垂れ込める分厚い雲の下、梅の花が赤々と冴えていた。  空に向かって伸びた細枝に、満開の花を咲かせている。  珍しくここ二、三日おだやかな日和が続いていた。梅はその時に咲き急いだのかもしれなかった。  三月を過ぎても冬の昏さを残すこの土地に、梅はささやかな(いろどり)を添えていた。  あいにく今日は朝から底冷えがして、今にも雪が降りそうな、寒の戻りをみせていた。そんな中、梅が活き活きと咲き誇る姿が、却って伊織の眼には物悲しく映った。寒空のもと、気丈に花を咲かせる姿が、何処となく自身の姿と重なった。  橘伊織(たちばないおり)は木肌に手をついて、足駄(あしだ)にくっついた雪泥を払うと、慎重に歩を進めた。 『坂の上の道場』と言われる柳田道場は、その名の通り急こう配の坂の頂にある。伊織は十二からそこの門弟だった。それから十年。三番目に席次が来る高弟となった今では、師範代にかわって後輩に稽古を付ける日も多くなった。  今日は午后からの稽古だったが、門弟たちの間で谷風邪が流行して、稽古は急遽取り止めになった。伊織はその旨を道場の隣に屋敷を構える道場主—柳田甚左衛門(やなぎだじんざえもん)に聞かされ、来た道をまた戻るところである。  伊織は歩きながら、坂の下に広がる家並を見詰めた。 町ぜんたいを厚い雲が覆っていたが、所々白っぽく見えるのは、ひかりの筋のようだった。もう少し天気が持つかな、と伊織は思い、不意に今日は兄が非番だった事を思い出した。 ―うむ。未だ時刻も早いから、帰って兄上の畑の手伝いでもしよう  そう思い立った伊織は、少し歩を早めた。いつも骨が折れると兄が言う、畑の土をおこす作業を買って出るつもりでいた。  伊織の八つ上の兄、橘馨織(たちばなかおり)は三十石取りの作事方(さじかた)で、伊織は兄の家の部屋住みだった。坂を下りて西へ七間ほど行った先の末穂町(まつぼちょう)に組屋敷があり、そこで兄と(あによめ)、今年六つになる兄夫婦の一人娘千絵と四人で暮らしている。 微禄ゆえ生活は厳しく、兄は城勤めの傍ら屋敷の前の畑で野菜を作り食費を浮かせた。 後は僅かな伊織の剣術指南料、嫂の針仕事で、橘の生計はどうにか成り立っている。  伊織は、先を急ぐために懸命に坂を下りた。 しかし足駄で雪をいくら踏みしめても、足は容赦なく雪面を滑った。―根雪で滑るのである。 道場ではきびきびと動ける伊織でも、根雪の残る坂を下るのは不得手だった。 道場通いを始めた最初の冬は、稽古中より帰り道の怪我の方が多かったほどだ。 ―幾つになっても進歩がないな、俺は  伊織が深い息を一つ吐くと、白い靄に変わって直ぐ消えた。  身を斬るような寒さが、何時(いつ)も見て見ぬ振りをしている心細さを呼び起こす。  かつての親友、有馬房之介(ありまふさのすけ)の不在を強く感じるのはこんな時だ。 『案ずるな、側には俺が付いている。思うように歩け』  低くよく通る声と共に、背中に感じた男の温かみが胸の(うち)に蘇る。  有馬は柳田道場の同門で、伊織と同じ微禄の武家の四男だった。 同じころ道場へ入門し、ひと時は二人揃って龍虎と呼ばれ、互いに好敵手と意識する中で友情が芽生えていった。  高い上背に、野生獣を思わせるしなやかな体躯。 何より端正な顔立ちだった有馬は、何処へ行っても人目を引いた。しかし中身は愛想笑い一つ出来ぬ堅物で、周囲から冷淡だと嫌厭される事も多かった。 けれど伊織は、有馬の無愛想な面差しの内に隠された優しさを知っていた。 道場終わりに、有馬と帰った三年間。 その間だけは、伊織がこの根雪の坂で転んだことは一度も無かった。
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