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兄のお陰で七年の時の隔たりが一気に縮むと、二人の足はどちらともなく神通川へ向かっていた。神通川は伊織の住む組屋敷の側を南北に流れる、幅五十尺ほどの小さな川である。
神通川は藩随一の標高を誇る似鳥山の山裾に繋がる飛竜川の支流で、今の時分、山の雪解け水をたっぷり含んで勢いを増していた。
「懐かしいな。この川も昔と全く変わっとらん」
有馬は感慨深げにそう言うと、ここへ来ると昔必ずそうしていた様に、川に向かって小石を投げた。石は勢いよく川面を滑り、五回ほど鋭く跳ねると濁流の中に消え去った。
幼い時分、伊織たちは必ず道場帰りにここへ立ち寄った。そして鮒を捕まえたり、相撲を取ったり、時には辺りが真っ暗になるまで話し込んで―心配して探しに来た嫂に、二人して叱られる事も度々あった。
有馬の家は子が多く、完全な放任主義だったので、有馬は嫂に叱られると少し嬉しそうだった。嫂もそれを分かっているから、わざと早いうちに自分達を探しに来た。そして格好ばかりの灸を据えた後、よく有馬を誘って晩飯を振舞った。
「あの時、お前の家でよばれた湯豆腐は、絶品だったな。俺はあれ以上の御馳走を未だ食ったことは無い」
伊織と同じことを思い出していたのか、眩しそうに川面を眺めながら有馬が言った。
御馳走といっても橘家の湯豆腐は、庭でとれた野菜と豆腐を昆布で煮て醤油を垂らした、何の変哲の無いものだ。
だが有馬はその湯豆腐を、昔から好んでよく食べた。
今思うと、あれは家族みんなで鍋を囲むこと自体が楽しかったのだろう。
初めて声をたてて笑った有馬を見たのは、あの時が最初で最後だった。
「‥‥そう言えば、さっき柳田先生に聞いたぞ。今は師範代に代わって稽古を付ける日もあるそうだな。凄いじゃないか」
有馬は、再び川に向かって石を投げた。
まるで童心に戻ったように、有馬が少しはしゃいでいる様に見える。
「おれは部屋住みだからな。他の者と違ってそれしかする事が無いんだよ」
「相変わらず謙遜が過ぎるな。そういう時は、笑って『ありがとう』と言えばいいんだ」
有馬は何の気なしに発した言葉だったが、伊織は内心ひどく驚いた。
有馬らしくない言葉だと思った。
その場限りの『ありがとう』を言うなど、昔の有馬が一番苦手だったはずだ。
伊織は眼を見開いて有馬を見たが、その横顔は何も気づいていない様だった。
きっと入婿さきで、教え込まれた事なのだろう。
何を褒められても愛想笑い一つできなかった有馬が、急に大人びて見えた。
—なんだ、許嫁の話などして貰わなくても、俺は十分傷つけるじゃないか…
伊織は七年ぶりに会った有馬の姿を、もう一度思い返していた。
昔は滅多に見せなかった笑顔。
饒舌になった口。
こちらを覗き込む様な喋り方。
ここに来るまで有馬はまるで女にする様に、隣を歩く伊織を気遣って歩いた。
由乃と過ごした七年が、有馬の中に沁みついている。
有馬との再会は、伊織にその事を強烈に知らしめた。
有馬———‥‥
道場を去る日、同門に見送られながら、怒っているように前を見据え続けていた有馬。
とたん、堪らなくなった伊織は、目の前の有馬の中に、あの日の有馬の姿を探した。
…だが伊織が幾ら目を凝らしても、あの日の面影はもう何処にも残っていなかった。
有馬と由乃が積み重ねてきた、幾年月。
その長さは、伊織が有馬と過ごした年月を優に超えていた。
「おお、コハクチョウか」
不意に有馬が呟いたので、伊織もその視線の先を追った。
対岸で羽を休めていたコハクチョウの番が、連れ立って大空へ舞い上がる。
遠いな、と伊織は思った。
どんどん遠のく二匹の後ろ姿は、地上に留まる伊織からは果てしなく遠い。
伊織は視線を俯かせると、未だ空を見上げている有馬に言った。
「…有馬、幸せになれよ」
だが伊織の声が小さすぎて聞こえなかったのか、有馬は黙ったままだった。
暫しの間、二人は川と同じ鈍色をした空を見続けた。
そしてそのまま一言も交わさずに、二人は若かりし日の想いでの地を後にした。
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