湯豆腐

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湯豆腐

   直ぐ橘の家へ戻る気がしなかった伊織は、有馬と別れたあと市中をふらつき、帰ったのは七つ半(17時)を過ぎた頃だった。  家の三和土へ入ると、ぷんと昆布の炊いた匂いがした。  伊織が「ただいま帰りました」と声を掛けると、姪の千絵が何時(いつ)もの様に伊織の帰りを出迎える。 「叔父上、お帰りなさい!見て見て、今日の夕餉は湯豆腐だよ。美味しそうでしょ?」  千絵はそう言うと、椀に入った型崩れの湯豆腐を伊織の前に差し出した。   「ああ、いいね。湯豆腐か」  伊織は苦笑いしながら、千絵の頭を撫でてやる。湯豆腐と聞いて少し心が波立ったが、千絵の可愛さが、どうにか伊織の心を鎮めてくれた。 「お帰りなさい!さ、さ、伊織さんも早く食べちゃって!丁度野菜が煮えた所よ」  囲炉裏のある居間から、嫂の呼ぶ声がした。  伊織は千絵と連れだって、ほかほかと湯気のたつ居間へと向かう。  見ると何時もの野良着ではなく継裃姿の兄が、囲炉裏に置かれた鍋の前で先に一杯やっていた。 「ただいま帰りました、兄上。あれ、今日は非番では無かったのですか?」  囲炉裏を挟んで兄の向かいに座った伊織が問うと、兄は下がり気味の眦を更に下げた。 「いやはや、そうだったのだが。ちと野暮用が出来てなぁ」 「野暮用?」  伊織が首を傾けると、鍋の灰汁を取っていた嫂がすかさず話に入ってくる。 「そうなんですよ。この方今日は非番だとご自分で仰ってたくせに、急に継裃姿になって、何処かへお出かけになってね。そのまま行ったきり雀で、お帰りになったのはさっきですよ、さっき。『お仕事でしたの?』と伺っても、違うと言うし。なんだかお召し物は汚れているし。まったく、また何処で何していたのやら……」  勝手きままな兄に長年振り回されている嫂は、すかさず伊織に言い付けた。  伊織は嫂の言うままに兄の姿を見てみると、確かに兄の着物の両袖が泥で汚れている。胡坐をかいた兄の両膝にも、茶色の染みが出来ていた。 「何、根雪の道で転んだのだ。どうも儂は、この時期の雪が苦手でなぁ」  兄が酒を煽りながらそう言うと、側に居た嫂はクスクスと笑い出した。 「だからって、そんなに派手に転んだんですか?全く、いい大人がみっともない」 「いやあ、参った。参った」  結局兄の失態話で嫂が思わず笑ってしまい、毎回嫂の小言はそれきりお流れになってしまう。何時もと変わらぬ、二人のやりとり。 常ならば嫂と一緒に兄の話を笑う伊織だが、今の話は流石に笑う気になれなかった。 伊織も今日根雪の坂で転んだが、あんな風に着物は汚れなかった。 有馬が後ろから伊織を抱きかかえて、助けてくれたお陰で。 「さ、さ、気ままなお兄様の事は放っといて、伊織さんも温かいうちに食べちゃいなさい」  嫂に促されて、ハッと我に返った伊織は、野菜と豆腐がくたくたに煮えた椀を受け取った。 女々しい奴だ。 あいつは既に、幸せにやっている。 それでもう、いいじゃないか。 心の(うち)でそう叱咤しながら、伊織は椀に浮かんだ豆腐を一口掬う。  鼻に抜ける熱さと、豆腐の優しい甘み。 だがいくら伊織が拒絶しようと、湯豆腐の味はそれを許さなかった。 とたん、味の記憶が伊織の記憶を呼び起こし、再び瞼にあの日の有馬が現れた。 『いやあ、熱い!熱い!熱くてかなわん。なぁ橘』 『当たり前だ、湯豆腐をそんな風に掻っ込む奴があるか!』  初めて皆で鍋を囲んだあの日、有馬は熱々の湯豆腐を冷ましもせずに口の中へ掻っ込んで、『熱い、熱い』と言って泣いた。  それを見た兄や嫂も噴き出して、伊織も珍しくはしゃぐ有馬の姿が嬉しくて、あの日は皆で一斉に笑ったものだ。  だが本当はあの時、有馬は豆腐が熱くて泣いたわけでは無かった。 それに気づいたのは、風邪で寝込んだ有馬の見舞いで家を(たず)ねた、その後だ。  カビや煤で黒光りした天井の梁。  部屋の襖は穴だらけで、隙間風が寒かった。  有馬の家には誰一人おらず、有馬は咳込みながら自分で七輪を起こして、見舞いに来た伊織に白湯を御馳走してくれた。 「叔父上どう?美味しい?美味しい?」  千絵がわくわくとした面持ちで、椀を持ち上げたまま動かない伊織に聞いてくる。  伊織は込み上げる何かを一度嚥下してから、一気に熱々の豆腐を口の中へ掻っ込んだ。 「熱い!熱い!いやぁ熱くてかなわん!でも美味いぞ、千絵」  伊織は湯豆腐を口一杯に頬張りながら、驚いて目を瞬かせる千絵に言った。  どうして自分は昔から、何でも気づくのが遅いのだろう。  あの日からずっと、自分が有馬を幸せにしてやりたいと願っていた。 実は淋しさを抱えるこの男の側に、自分がずっと寄り添っていてやりたいと――― 鼻がツンとして、耳の中がぼうっとしてくる。 …だがそれは全て豆腐の熱さのせいだと、今だけ伊織はそう思うことにした。
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