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兄と弟
暗闇を覆う雲が、今にも泣き出しそうな色をしていた。
雪が降り出す前の、しんと静まり返った瞬間。
風は止み、外の草木は息を詰め、これから訪れる雪の寒さに身構えているようだ。
伊織は建付けの悪い雨戸を閉めると、自室の隅に据え置かれた火鉢の灰を掻き廻した。
埋火が一瞬激しく燃え上がり、伊織は掌を摺合せ、両の手を火鉢へかざす。
火鉢の火だけが頼りの薄暗い部屋では、ぱちぱちと炭が弾ける音だけが響いた。
伊織はその燻った色の炭を見詰めながら、神通川で別れた有馬の姿を再び想う。
その姿は、決して昔と同じものでは無かったけれど。
有馬がそこに居るだけで、伊織が七年間見てきた鈍色の世界は、一瞬で鮮やかに色づいた。
好きだった。
本当に有馬が好きだった。
共に過ごした三年も、それから離れて過ごした七年も。
伊織の中には、いつも有馬が居た。
そしてこれからもずっと――‥‥春になっても消えない根雪の如く、伊織の胸の裡に有馬は留まり続けるだろう。
伊織は今になってやっと、その気持ちを素直に認める事ができたのだった。
「伊織、儂だ。少しいいか」
不意に部屋の襖が軽く叩かれ、外から己の名を呼ぶ兄の声がした。
ハッとした伊織は目元を拭き、慌てて部屋の行燈に灯をつける。
こんな時間に、兄が伊織の部屋を訪ねて来ることは珍しい。
伊織は小首を傾げながら襖を開けたが、同時に、灯りも付けずに部屋で何をしていたと、兄に問われるのを恐れてもいた。
だが伊織が兄を自室に招き入れると、不意に兄はへらっと笑って、顔横で徳利を左右に振った。
「どうだ、たまには一杯やらんか」
居間で随分飲んできたのか、兄は既に赤ら顔だった。
ホッと安堵した伊織は、側にあった座布団を兄に手渡すと、自らも兄の前に座って胡坐をかいた。
「いいですね。私も丁度飲みたかった所です」
兄に伊織の状況がバレていないと悟り、気が大きくなっていた自覚はある。
だが、このまま有馬を想って一人ジメジメして過ごすより、兄と酒を飲んで憂さを晴らす方がいいようにも思えていた。
明るく穏やかな兄の側に居ると、不思議と昔から心が安らぐ。
十の時両親が早世して、それからずっと兄に面倒になっている伊織だが。
その日から今日に至るまで、伊織は兄を疎いと思った事は一度も無かった。
早速差し向かいで互いに酌をし合った兄弟は、共に盃の酒を一気に煽った。
喉元がカッと熱くなり、さっきまで寒さで凍えていた身体がほかほかと温まる。
思わず「美味いな‥‥」と伊織が呟くと、兄が眩しそうに眼を細めた。
その眼差しが何時も以上に慈愛に溢れていている気がして――伊織は思わず目を伏せる。
昔から兄は伊織に対して幼子を愛でるような眼差しを向けてくるが、今日は酔っているせいか随分と明け透けだ。
しかし当の本人はそんな事は構いもせず、暫し押し黙ったまま伊織を見続ける。
とうとう気恥ずかしくなった伊織が、兄を咎めようと面を上げた時だった。
先とは打って変わって悲痛な面差しになっていた兄は、伊織の顔を見るなり静かに言った。
「お前の親友有馬房之介だが——昨日佐々木を勘当されて家を出たようだ。今晩は、緋川町にある『だるま屋』と言う木賃宿に泊っているらしい。…そして房之介は明日江戸へ発つ。…これはもう、随分前から決まっていた話だそうだ」
「えっ……」
伊織は目を剥いたまま、いっとき喉を塞がれたように言葉を失った。
兄の言葉が、まるで異国の言葉のように耳からはじき出されて、全く要領を得なかった。
あの有馬が勘当された?
明日江戸へ発つ?
‥‥一体ぜんたい、どういう事だ。
蒼白したまま口を戦慄かせる伊織を兄は一瞥すると、再びおもむろに口を開いた。
「房之介は此度、由乃様との婚儀を白紙に戻して欲しいと自ら申し出たそうだ。一時はそれで切腹沙汰にまでなったようだが—最終的には主膳様が房之介を勘当する、という形でお手打ちにされたらしい。だが…微禄の武家の出の房之介が、佐々木の家名に泥を塗った罪は重い。実質は国払いだ。あ奴もう二度と、この地へは戻って来れんだろう」
兄は一気呵成にそう言うと、呆けたような眼差しで遠くを見た。
そんな兄の顔を初めて眼にした伊織は、今の話が真実である事を即座に悟った。
「‥‥そんな‥‥でもだってあいつは———」
伊織の中で、今日会った有馬の姿と今の兄の話が、全く結びつかなかった。
有馬は佐々木の家に…ひいては由乃との生活に、十分馴染んでいる様に思えた。
だが今の兄の話では、それを真っ向から否定している様なものだ。
それとも、単なる自分の思い過ごしだったのだろうか。
実はずっと有馬は佐々木の家や由乃との生活が我慢ならなくて、それで此度の婚儀を蹴ったとでもいうのか―――?
伊織が一人考え込んでいると、兄はその心根を読み取ったように伊織に加えた。
「案ずるな。房之介は佐々木の家で、十分可愛がられていたそうだ。由乃様も、幼い時分から房之介によく懐いていたらしい。」
「ならば‥‥ならば一体どうして‥‥」
有馬は余程の事が無い限り、一度交わした約束を簡単に違えるような男ではない。
伊織が縋るような眼で兄を見ると、兄はおもむろに首を振り、深い吐息を一つ吐いた。
「房之介は婚儀を拒否した理由を、最後まで口にしなかったそうだ。儂はこの話を聞いた時…あの生真面目一辺倒の房之介が、どうしてこんな大それた事をしたのかを考えた。考えて、考えて、考えて——ふと、あいつと最後に会った七年前の夜の事を思い出した」
「七年前の夜‥‥ですか…?」
「そうだ。七年前、房之介が佐々木の家へ養子入りする前、最後に会ったのはこの儂だ。夜半もとっくに過ぎた時刻で、あいつは寝間着姿でな。ウチの庭の前で一人立ち尽くしていた。どうしたと聞いても、あいつは答えん。ただ両の拳を握り締め、肩を震わせたまま俯いて——…どの位そうしていただろう。不意に面を上げた房之介は、『橘と離れたくない』と儂に一言そう言った」
「…‥‥…」
「————伊織。儂はあの時見た房之介の顔が、未だに忘れられんのだ」
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