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唸る様に言った兄は、伊織を見た。その面差しは、何処か痛みに耐える様だった。
「無論、これは七年も前の話だ。今でもお前を懸想するが故に、房之介が婚儀を蹴ったか否かは、儂にも分からん。…だが、くだんの件で房之介が全てを失ったのは紛れもない真実だ。国を離れ、江戸へ出たところで、あ奴はこれより浪々の身。有馬の家に居た時分より貧しい—それこそ爪に火を灯す様な生活が、あ奴には待っている」
兄はそう言うと、伊織から初めて視線を逸らした。ずっと呆けた面持ちで兄の話を聞いていた伊織の頬に、一筋の涙が流れる。伊織はそれを慌てて拭うと、濡れた瞼をそっと閉じた。
眼裏に蘇る、あの頃の有馬の姿。
誰も居ない屋敷で咳込みながら湯を沸かす有馬の姿が、再び伊織の胸を突いた。
無論、親のする事に不可抗力だった幼い時分と今は違う。
自らがまいた種ゆえ、有馬がこれから苦労を強いられるのも承知している。
…だが、伊織は有馬を不憫に思った。
有馬の胸の裡に潜む悲しみの深淵を、伊織は今垣間見た気がした。
昼間神通川で目にした、コハクチョウの番はもう居ない。
それを自ら捨て去った男は、これから辛く険しい嵐の空へ一人旅立つ。
有馬のその姿を考えるだけで…伊織は今にも身を切られる思いがした。
―飛べるか
伊織は、鈍色の空を飛び去った二匹の番を思い浮かべながら、自身に問うた。
次はお前が空を飛べるか、と。
伊織はフッと口元に笑みを浮かべると、瞼を開け、真直ぐな眸で兄を見た。
その眼の奥には、決意新たにした強い意思の炎が燃えている。
「——兄上、どうか私を有馬の所へ行かせてください。どうしてもあいつを一人、江戸へ行かせるわけにはいかない。…兄上、どうかお願いです。俺も…俺もあいつと共に、江戸へ発つ事をお許しください」
畳に手を付き深々と頭を下げる伊織の頭上で、兄は暫し押し黙った。
張りつめた空気の中、火鉢の灰の跳ねる音だけが辺りに響く。それがどの位続いただろうか――
「苦労するぞ」と兄は溜息交じりで呟くと、再び伊織に言って聞かせた。
「…伊織よ。儂がここで言う『苦労』とは、何も生活の事だけを差している訳ではない。―伊織、お前がこれから房之介と生活を共にするならば、それは房之介の罪の片棒を、お前も担ぐという意味だ。
お前は何か勘違いをしている様だが――此度房之介の犯した最大の罪は、佐々木の家名を汚した所には無い。房之介が土段場になって、由乃様を裏切った所にある。
由乃様は七年もの間、房之介と夫婦となると信じて疑っていなかった。それが急に、それも房之介自らの手で打ち砕かれたのだ。――もし、お前がその立場であったらどうする?日々涙で打ちひしがれて、生きているのさえ億劫になるだろう。もう全てが嫌になり、自ら腹を召そうとするかもしれない。
いいか、伊織。そこまで考えを及ばせられなかったあ奴の未熟さが、此度最大の罪なのだ。
…お前はそれでも行くつもりか?一人の女子の人生を台無しにした男と本気で、生涯を共にする覚悟があるのか……?」
兄に念を押される度に、伊織の畳に付いた手は小刻みに震えた。
由乃の事が、伊織の頭に全く無かった訳ではない。…だが、伊織は有馬の身を案ずるばかりで、由乃の心中まで考えが及んでいなかった。
己も有馬と同じ未熟者だと、伊織は今痛感した。
如何なる時も己を貫こうとするならば、その際必ず何処かで歪が生じる。
だから致し方ないと、高を括っていた。
しかし今は同じ男を想う由乃の心根が、伊織には痛い程身に染みた。
「あっ、兄上、私は…私は……」
伊織は喘ぐように言うと、グッと唇を噛み締めた。
きっと今は、何を言っても言葉がうわ滑る。
伊織が逡巡したまま顔を上げられないでいると、不意に兄は伊織の手を取り、その手をぎゅっと握りしめた。
掌に、何か固い物を掴まされた感覚があった。
そろそろと顔をあげた伊織は手元を見やると、そこには二枚の小判が握らされていた。
伊織は唇を戦慄かせ、弾かれたように兄を見た。
その刹那、伊織から手を離した兄の両の指先に、泥がこびりついているのが眼に入った。
「二人分の路銀にしては少々心許ないが、無いよりはマシだろう」
「あっ、兄上‥‥ッ!こ、こんな大金一体どうして――」
伊織はそう言った矢先、何かを気づいたようにハッと眼を瞠った。
兄は確か夕餉の際、根雪で転んだと言っていた。
だがいくら雪の上を数回転んだくらいで、こんなに指先が汚れるわけがない。
―違う。
兄は自ら雪の上に手を付いたのだ。
何度も何度も…それこそ、指先が泥で真っ黒になるくらいに
夕餉の際目にした兄の汚れた着物袖。
両膝にできた茶色い染み。
手渡された二枚の薄汚れた小判―――
兄は今日丸一日、この金を借りる為に方々を走り回っていたのではないか。
雪の上に何度も手を付き、縁戚知人に頭を下げて…
小判を握りしめ咽び泣く伊織の背を、兄はそっと抱き起した。
泣き濡れる伊織を見詰める、兄の面差し。
その面差しは――いつもと変わらぬ慈愛に満ち溢れていた。
「——分かればいい。分かればいいのだ。自分達が共にあるという現実は、誰かの不幸の上に成り立っている。その事を必ず肝に銘じでおきなさい」
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