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とたん、脱力した伊織は眸を揺らめかせると、有馬の肩に積もった雪を虚ろな眼で見詰めた。
頭には先に聞いた兄の言葉が蘇り、伊織の耳元で幾度も繰り返されている。
『そこまで考えを及ばせられなかったあ奴の未熟さが、此度最大の罪なのだ――』
しかし有馬は気付いていた。
自身の罪の重さを、由乃自らの手によって、その身に教えられたのだ。
由乃の泣き声が激しい川音に混じって、今にも聞こえてくるようだった。
伊織は今日初めて、自身の足場がぐらついたのを感じた。由乃の有馬への一途な想いが自身の積年の想いと重なって、伊織は再び身動きが取れなくなる。
有馬の罪の片棒を担ぐとは、こんなにも自責の念に駆られるという事なのか。
兄の言う『苦労』の本当の意味が、伊織は今初めて分かった様な気がした。
仮にこの先、二人で過ごせる日が訪れようとも――自分達の眼裏には、常に由乃の幻影が映り込む事だろう。
そんな毎日にお前達は耐え得るのかと、あの時兄は問うたのだ。
ー由乃と直接関わりの無い俺なら、まだこの痛みを凌ぐ術はあるかもしれない。だが当事者である有馬はどうだ。
その由乃の幻影を目にする度に、嫌という程思い知らされるのではないか。
己が犯した罪の重さを。
今も何処かで泣いているだろう、由乃の深い悲しみを。
伊織はハッと目を見開くと、かじかんで動かない右手を無理やり握り締めた。
俺はこの手で、有馬を幸せにしてやりたいと思った。
だが俺が手をさしのべる事で、この先有馬が一寸でも幸福を感じる瞬間があるのならば。実はその瞬間こそが、有馬が最も由乃への罪悪感で苦しむ瞬間ではないのだろうか……?
伊織はふらりと有馬から離れると、泣き濡れた顔を両の掌で何度も拭った。
―ひとの不幸の上に成り立つ生活とは、この表裏一体の感情に常に折り合いをつけて生きてゆく事なのだ
それは何と辛く苦しい旅だろう。
そしてその苦しみが、互いが近くに居る事で更に拍車がかかるのであれば――…自分は有馬の傍には居られない。
伊織は朱く染まった眼の縁から涙を振り払い、奇妙に歪んだ、けれどこれ以上無いほどの満面の笑みを有馬に向けた。
ー俺はお前を決して苦しめたかった訳じゃない。ただ他愛の無い日々を、一緒に過ごしたかっただけなのだ。
若かりし日に共に過ごした、あの頃と同じように……
最後の別れくらいは、笑顔でありたいと伊織は思った。 伊織はおもむろに有馬の前に手を差し出すと、再び笑って頷いてみせた。
「お前の気持ちはよく分かった。――有馬、今までありがとう。向こうへ行っても、身体だけは気を付けろ」
「……ああ」
戸惑いがちに差し出した有馬の手を摑まえ、伊織はその手にぎゅっと力を込めた。
やっと伊織の言葉に有馬が答えてくれた事が、この上なく嬉しかった。
冷え切った有馬の手。
この手を取ることが、自分には叶わなかったけれど。
それでも自分は有馬にこれまでの想いを、ちゃんと伝える事だけは出来た。
伊織は名残惜しい気持ちを見透かされぬよう自ら手を離し、橋の対岸に向かって歩き出す。
半合羽は雪で濡れそぼって中まで重かったが、伊織は姿勢を正し、前を向き、颯爽と雪の上を歩いた。
己が今出来ることは、有馬の罪悪感を少しでも軽くしてやる事だけだ。
由乃の事で手一杯の有馬に、この件で自分に対してまでも罪の意識を感じては欲しくない。
有馬、俺との事は気にするな。俺は大丈夫だ。俺は全然大丈夫だから。
だからこれしきの事で、絶対に気に病むなどしてくれるな―――
有馬に背を向けて歩く伊織は、気づくと再び泣いていた。
だが今は足下を激しく流れる川音が、伊織の泣き声を全て消し去ってくれている。
がんばれ。
がんばれ、有馬。
罪悪感で押し潰されそうな夜を幾つ重ねても、したたかに、必ず己の命尽きるまで長く生き抜ぬいてくれ。
今の俺には、それを願ってやることしかできないから‥‥。
早足に橋を渡り切った伊織が、対岸の橋の石階段に足を掛けた時だった。
雪で嵩を増した段差に足を掬われ、伊織の上体は大きく前方へ傾いた。
「あ……ッ」
伊織は咄嗟の衝撃に身構えたが、後ろから腕を掴まれその身を橋の上に引き戻される。
背中に感じる人の気配。
その刹那、伸びてきた力強い腕が伊織を胸に抱きとめていた。
「――馬鹿。雪上を歩くのが不得手な癖に、そんなに早足で行く奴があるか」
両の腕で背後から抱きすくめられ、伊織の心の臓が早鐘を打ち鳴らす。
伊織が恐る恐る顔を上げると、白い息を小刻みに吐く有馬がこちらを見ていた。
「有馬…どうして……」
「どうしてって……」
有馬はそこで一息止め、逡巡するように眸を揺らめかせたが、絞り出す様な声で伊織に言った。
「お前が橋を降りる時転ぶと思って――…気づいたら、身体が勝手に動いていた」
伊織はその言葉に目を瞠り、唇を強く噛み締めた。
さっき橋の上で、あんなに泣いた筈なのに。
再び堰を切ったように溢れ出す涙は、どんなに伊織の意識が拒んでも止まらなかった。
―泣くな。泣くな
こんな風に俺がまた泣いたら、きっと有馬の負担になる
「すっ、すまん、有馬。これは違うんだ。本当に違うんだ。きっ、気にするな。俺は大丈夫、大丈夫、だから……」
焦って顔を拭おうとした手首を、掴まれる。
その刹那、上向いた伊織の髷を強く引かれ、有馬が覗き込む様にこちらを見て来た。有馬の切れ長な眼が眇められ、徐々に距離が近づいてくる。その眸を無意識に伊織が追うと――有馬の唇が伊織の唇にしっとりと重なった。
それはほんの一瞬であったような気もするし、長い間そうしていた様な気もする。伊織の唇から離れた有馬は、再び伊織を後ろから掻き抱き、唸る様に言った。
「違う。謝るのは俺の方だ。……すまない、すまない橘。どうしてもお前が、忘れられない」


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