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Fragment 3
僕は桜を知らない。見渡す限りの橙畑しか知らない。
新しいバイオエネルギーの原材料に、病の治療薬に、有用な橙を植え続けた結果だ。
桜とはどんな花が咲くのかな。
桜色とはどんな色ですか。香りはありますか、食べたらどういう味ですか。実は生りますか、樹の肌を触ったら、ざらざらとしますか、つるつるですか、ふかふかですか。
僕は、桜を知らない。ただ物語に残るうつくしさだけを知っている。
僕の先祖が、橙を広めた張本人らしい。電子的な記録は、過去の一時期ほとんど失われている。詳細はわからないが、一冊の古ぼけた日誌に、橙の改良記録と桜のことが書かれていた。
桜の季節に見送った恋人のことも。
そのひとは桜が咲くとこは好きだった。
古文書のように年季の入ったページをめくると、文字が並んでいる。几帳面なの、いい加減なの。
記録によると、桜の花は散るらしい。はらはらと。なにか危険性があるのだろうか。はらはら、というのは辞書を引くと危ぶんで気をもむさま、とあるのだが。あとは涙がこぼれる様子。
涙が流れるように花は散る。雨のように降り注ぐのなら、
傘が要りそうだ。
春になったら花見に行こう。桜はこれから造るところ。僕は君に定期通信を送る。返信が来る頃に桜の画像を準備できたらいいな。星々の間を抜けた電波のたどり着く場所を想像すると、気が遠くなりそうだ。
橙の樹の方が人間の数よりも多いので、しばらく人間と話していない。寂しくはない。今朝、枝からもいだ橙をかじりながら、このメールを書いている。
今年の橙はとても甘いです。君に実を送ってあげられないのが残念。写を撮る前にうっかり食べきってしまいました。ごめんなさい。
人間と会話をしていないので、発声の仕方を忘れないように、携帯端末の搭載AIとしりとりをしている。
すぐに「ん」のつく言葉を言ってしまうので、長く続けられません。物足りなさが募るばかりです。
散歩をしていた土手に、土筆が生えていたのを見つけて、摘んで佃煮にした。
遺伝子混入のせいか、苦味の中に橙の香りを感じる。
おひさまの香りと、先々代のS氏は記している。
僕は、なんだろう、そうだ、パッヘルベルのカノンの味がする。大逆循環、快い完璧の味。
君に聞かせたい。一緒に味わいたい。
僕らは百年待ちました。いままでの僕が、S氏がつけた日誌のページがどんどん増えていってます。耳の奥にこびりついたカノンが巡り続けるように、僕らは生活を繰り返している。
起床、朝食、作業、昼食、作業、夕食、就寝。
去年から、お茶の時間が増えました。桜キメラの子が、おやつを欲しがるから。まだ、小さいですが、君の帰る頃にはたくさんの花を咲かせてくれるでしょう。
本物の桜を知っている君からすると、とても奇妙な子でしょう。でも、これが僕の桜です。
打ち終えたメールを送信しようとしたら、僕の腕とキーボードの隙間に、桜キメラが潜り込んできた。ふかふかの背中の毛皮がくすぐったい。
写真を撮って送ろうかなと、毎回考えるのだが、やめておく。
君をびっくりさせたいから。僕の足元を縦横無尽に走り回る桜キメラたち。
橙畑のはずれにある空き地に、宇宙船が降りてくる。
出発の時は輝く銀だった機体は、大気圏突入の熱に焼けて、鈍色になっている。ハッチが開いて、出てきた君は、桜キメラたちを見て、どんな顔をするだろう。本物の桜とは違うが、がんばったつもりだ。
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