嫁の味噌汁

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 僕と嫁はソファーに寄り添い、春の麗かな陽気を楽しんでいた。大きな窓から差し込む陽光により、フローリングにひかれた光のラインを眺めたり、空を飛ぶ小鳥のさえずりに耳を傾けたり、そんな、和やかな時間が過ぎる。  モロッコの砂漠をテーマとした曲が聞こえてきそうだ。  こうしていると眠気を伴うのだが、呑気に寝てなどはいられない。  前述した通り、今日は週に一回あるデートの日だ。故に、僕の心内は遊園地に行く前の子供の如く狂喜乱舞であるが、あまりはしゃぐのは年甲斐もなかろう。  僕はスマートに、足を組み、スマホでネットニュースを確認しながら、嫁が淹れてくれたコーヒーを嗜み、余裕のある都会人を装った。  嫁の隣にいるべきは、こんな男でなくてはいけない。嫁は理想だからな、故に隣にいる僕も理想でなくてはいけない。  嫁は僕の余裕のある風格に惚れ直したのか、絡ませてる腕を、さらに強く抱いた。  心地が良い。  ずっと、こうしていたいのだが、生きるためには飯を食べなくてはならず、デートの日は流行りの店でランチを食べるのが定石だ。  故に、どの店にランチを食べに行くのか決めなくてはならない、流行の移ろいは早いからな。 「今日のランチ、どこにしよっか?」  僕は囁くように訊く、出来るだけ平然に声の抑揚を取っ払い、都会系男子の再現に努める。  実のところ、僕はランチをどこで食べるのか目星はつけてあった、あえて、嫁に訊くことにより、気遣いのできる大人を僕は演出したのだ。 「うーん、どうする?」  嫁は唸る、僕はすかさず、 「こことかはどうかな?」  と、店のホームページを見せた。  店は都内にあるカフェであり、モダンな雰囲気を漂わせている。単身突撃は憚れるほど、お洒落度数が高い。  それ故か、ネットの評価は星五つ中、四点五と高評価、曰く、パンケーキが旨いとのこと。 「貴方が良いなら、ここが良いわ」  嫁はスマホから、視点を移動させ僕の顔を伺うように覗き込んだ。とても可愛い。 「じゃぁ、ここにしようか」  正直、僕はコテコテのラーメンが食べたいところだったが、嫁にラーメンは似合わない。  僕の勝手な願望で、偏見かもしれないが、嫁にはパンケーキとか、メルヘンなものを食べていて欲しい。 「貴方と出かけるんだからお洒落しなくちゃね」  そう言って、嫁はウォークインクローゼットのある部屋の方へ、スリッパを忙しなくパタパタと鳴らして消えて行った。  右腕が途端に寂しくなる。  僕はソファーから尻を離し、立ち上がる、そして、スマホと左手をポケットに突っ込み、右手でコーヒーを持ちながら、めいいっぱいの光を受ける、巨大な窓へと近づいた。  眼前には高所恐怖症の僕からしたら、足が竦むようなビル群が広がっている。  この光景で察するところは、我が家は都内にあるタワーマンションの一室だと言うことだ。  高所恐怖症であろうが関係ない。僕は眼下に広がる、東京の街並みをぼんやりと眺めながら、コーヒーを啜る、コレぞ完全無欠のできる男って感じだろ?  そして、僕は嫁の着替えタイムにより生じる余暇を余すことなく使用するため、コーヒーカップをローテーブルに置き、スマホを弄る。  少し悩みながら、僕はヤフー知恵袋を開いた、ネットには千差万別の賢者が五万といる、僕はその人たちに教えを乞うことにした。  無論、僕が教えて欲しいのは、どうすれば、嫁に美味しい料理を作ってもらえるかだ。  流石に、これからずっと、味のない朝食を食べ続けるのはストレスが溜まる。  なんでも、許容してしまう僕とは言え、堪忍袋は無尽蔵ではなく、我慢の限界が存在する。  ストレスはあってしかるべきものだが、気苦労はしたくないのだ。それは、誰だって同じだろう。  それに、状況に変化が訪れず、平行線を辿った場合、由々しき事態に発展する可能性がある。  由々しき事態とは、喧嘩とか離婚とか……ストレスは人から理性を奪い去るものだと僕は考えているから、何かの弾みで、僕の本性を嫁に勘づかれては困るのだ。  嫁を失望させたくはない。  故にベストアンサーを僕は期待した。賢者たちに質問した内容はこうだ。  結婚一年目の新婚です。  奥さんの料理が壊滅的に美味しくありません、奥さんを傷つけずに美味しい料理を作らせてやることはできませんか?  無理なことを承知の上、質問しています。  僕の渇望していることは、嫁を傷つけずに美味しい料理を作ってもらうこと。  もし、軽薄にも嫁の料理に文句を言うなれば、今後、嫁に料理を作ってもらえなくなるかもしれない、それは絶対に避けるべきだ。  僕は美味しくなくとも、嫁が作っているという事実さえあれば、味など関係なく甘受するのは吝かではない。  しかし、美味しい料理を食べたい、と願ってしまうのは、人としての道理だ。故に、こう言う質問をさせて貰った。  ワガママだと言うことは、重々承知している、だが、賢者ならと、一縷の希望をそこに見出し、僕は質問をしたんだ。  メシマズは嫌だ! 早くうまい飯が食べたーい! 「何やってるの?」  鈴の音のような声が、僕の心臓を一時的に止める。再鼓動を始め、我にかえった僕は、即座にスマホの電源を落とし、答えた。 「ち、ちょっと、気になるニュースがあってな」 「ふーん」  嫁の胡乱そうな声を聞いた後、僕は振り向く。  そこには、この世に現出した天使が立っていた。これは暗喩でも誇張でもなく、僕はそう思ったのだ。  いつも、嫁は可愛いが、おしゃれをした嫁は、いつもの嫁の数倍可愛かった。特に目を引くのは、ネグリジェのような白いワンピースだ。  これはもはや天使! いいや、女神と言っても差し支えない。  そのワンピースは、可憐な嫁にぴったりの、まさにオーダーメイドで作られたかのようで、それにより、織り成される、相乗効果は計り知れない。何度見ても癒されるな。  僕は生唾を飲み込み、言った。 「とても、似合っているよ」  嫁は頬を紅潮させ、照れた。  全身のほとんどが、純真なホワイトなのでその赤はとても目を惹く。 「ありがとう……そろそろ行こうか」  嫁は語気を弱め言った。 「そうだな、行こうか」  そうして、僕たちは家を後に、マンションの廊下を歩き、エレベーターに乗ってロビーまで降りる。  外は春特有のむず痒い匂いと、燦々と照る陽光にあふれていた。  向かうは最寄りの駅である。  僕らの住むタワーマンションが存ずるは有楽町線、豊洲駅から徒歩十一分のとこ。別段不便はない。  近くにコンビニは勿論、ホームセンターからスーパー、ショッピングモールも徒歩圏内にある、生活するには申し分ない。  これも、再開発の賜物か。  透明感に溺れる街並みを尻目に、ガラス細工のような嫁は、コツコツとヒールで地面を叩き鳴らす。  無論、腕を組み、寄り添う形になって僕らは歩いている、さながら、二人三脚だ。  緑の生える広場を抜け、モノレールの水色の線路を正面に、左に曲がり、駅の中に入った。  構内は四方八方をタイルで囲まれており、コインロッカーがおかれ、少しだけ陰気に感じる。  階段を降りた先のフロアは白を基調としており、差し色に黒の柱がある。柱には液晶パネルが埋め込まれており、忙しなく広告を写し変えていた、こちらは清潔感があり、駅然としていた。  電子マネーをかざし、改札を通過し、ホームに出ると、同時に電車が滑り込んできて、僕らは乗車する。  車内には電車特有のクレゾールの匂いがした、昼下がりであることから、乗車人数は少なく、僕らは座席に腰を落ち着かせることができた。  僕は一息つく。 「ねぇ、聞こう?」  嫁はイヤフォンの片方を差し出し言った。僕はイヤフォンを受け取り、音楽を聴く。  電車に揺られながら、嫁とそう過ごす時間は、至福のもので、いつしか僕は、あまりの心地よさに寝入ってしまった。  嫁の匂いが鼻腔を刺激する。
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