嫁の味噌汁

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 夏の延長線上、残暑の厳しい初秋のことだった。  その日は九月の半ばだというのに、真夏かと勘違いするほど、うだるように暑かったことを記憶している。  できるなら、冷房の効いた部屋から一歩も出たくなかったのだが、そういうわけにもいかず、僕は熱波を全身に浴びながら、住宅街を歩いていた。  僕はとても不機嫌だ。  不機嫌の原因は暑さに起因するものだけではなく、今がバイト終わりで、壮大な疲労が僕を掌握しかけているのも理由に加えといて欲しい。  足枷が付いているのかと勘ぐる。  秋だというのに、八月の勢いで猛威を振るう太陽は痴呆が進んでいるとしか思えない。そんなに地球を照らしてどうなるというのだ。嫌がらせか? だったら即刻やめて欲しいものだ、天体には道徳の概念がないのか?  などと、主系列星に文句を垂れる、それくらい、暑い。  筋肉が断末魔じみた悲鳴を上げている、バイトで酷使した体に僕は鞭を打ち、必死に家路を目指した。  今日は特段忙しかった、この時期は書き入れ時だと店長が言っていたが、否定の余地はなく、店長に同意する。今日が通しだったら、死んでいたぞ、僕は。  嗚呼、汗の染み付いたTシャツが皮膚に貼っついて気持ち悪い、早く家に帰ってシャワーを浴びよう、それで、アイス食べたり、キンキンに冷えた麦茶を飲むのも良いな。  イマジネーションで暑さを乗り切ろうとするが、儚くも想像は一陣の熱風により崩れ去る。精神的風土も作用しない。  あー、暑すぎる!   と悶える僕の元に、涼しげな音色が聞こえてきた。僕はそれに惹かれる。夢遊病患者のように、その音を求めて彷徨い始めた。  しばらくして、僕は音の正体に気づく、これはピアノの音だ。おそらく、どこかの家でピアノを演奏しているだろう。  少し歩くと、音源と思われる家を見つけることができた。確かこの家は……最近、引っ越しトラックが止まっていたな。引っ越してくる人などあまりいないからよく覚えている。  外壁は白で、とても眩しい。窓から見える、カーテンがとても涼やかに揺れている。  耳を澄ますと、ピアノが何を奏でているのかが分かった、ベートーベンのエリーゼのために、だ。  確か、作曲者が愛した女性、テレーゼのために書いた曲であったが、悪筆でThereseが読めずEliseのために、になったのは有名な話だ。  この気の抜けた曲調が面白く、だんだん大きくなって、元に戻ってと、聞いていて飽きが来ない。  特異なリズムは不思議と清涼感を伴う。  僕は暑さも忘れ、道の中央でピアノを聴いていた。こう、知らない人の家から漏れ出る、美しい旋律を聴いていると、妄想が捗る。  ピアノを弾いているのは、どんな人物なのだろうか? 僕の脳裏には、フォーマルなドレスを着た美人の姿が浮かぶ。  髪はサラサラのセミロングで、純粋無垢な顔をしていそうだ。長い指を操り、軽やかに鍵盤を弾く姿が容易に想像できた。  僕は暑さも忘れ、その音色を聴き入り、ピアノを弾く美人の妄想に耽った。  不意に無機質なクラックションが聞こえてきて、僕を夢想の世界から現実へと引き戻す。  横を向くと、一台車が止まっていた、僕がピアノに夢中になってる間、通行の妨げを行なっていたようだ。  僕は慌てて、道のはじに寄り、詫びを込めて一礼した。車は憤然と、走り去っていく、煙たい排気ガスを残して。  さて。僕はまた、美麗なクラシックを傾聴しようとするが、演奏者はクラックションに驚いたのか、待っても演奏の再開はし得なかった。  僕はエリーゼのためにのサビを聴くことは出来なかった。汗を拭い、沈鬱と歩き始める、早く家に帰ろう。  僕は残りの帰路を、あの美しい音色を奏でる演奏者について考えることにあてた。  演奏者は恐らく二十歳くらいの女性、花で喩えると月下美人のような容姿をしているに違いなく、グラマーな曲線に密着したヒラヒラのドレスを着ていることは間違いなし……  なんて、これは妄想で確証なんて無い、謂わば、僕の理想だ。  故に現実ではなく、実際ピアノを弾いている人間は、背筋の伸びたお婆さんや、紳士風のお爺さんとかが妥当な所だろう。そんなイメージだ。  美人が昼下がりにピアノを弾いているなんて、一世代前のトレンディーが起こりうる筈がない。そんなのは幻想に過ぎない。  そう思うと、僕の心にあった清涼感は枯れた、残暑がより一層厳しく感ず、溜息が吐露する。 「ただいまぁー」  家に着いた。  甘美な冷風をこの身に受け、砂漠でオアシスを見つけたような喜びに、僕は身を浸す。  その後、シャワーを浴びて、自室で読みかけの本を読むことにした。  自室の窓からは、丁度あの家が見え、僕は少しの間、あの家をぼんやり眺めていた。意外と近所だったんだな、あの家。  ピアノを聴いた際の妄想が鮮明に、脳裏に再投影される。  あの家には変化はない、ただ刺すような日差しを受けているだけ、いくら凝視しようとも、頭の中の女性が現出する筈がない、自分の行動の非生産性などは分かりきっている。しかし、眺めてやまない。  と、あの家の窓が開いた。期待に胸が高鳴る。そして、僕の期待を見透かすように、窓から顔を覗かせたのは、可憐な美少女であった。  僕の妄想と寸分違わぬ、正に理想の女性だったのだ。  ここからでは、詳細は掴めぬが、それでも、雰囲気で分かった、彼女は僕の妄想を体現したかの姿を呈している。ここから見える仕草、雰囲気、顔つき、服装。全てがそのことを示唆していた。そして、僕は恋におちたのだった。  高校二年のことだった。          ○  それから、僕は何事も手付かずになってしまった。四六時中、おそらく彼女が弾いたであろう、ミレミレミシレドラが頭の中を堂々巡りして、何かにあぐねている。  勉強も、バイトも、家事手伝いも、ケアレスミスが多くなった。友達には変わった、と言われた。  しかし、それも仕方のないことだ。それほど、彼女は美しいのだから。  僕はあの家の表札を見ることにより、彼女の苗字を知った、とても美しく、彼女にベストマッチした苗字であった。  暫しの満足感。だが……  現状はラビリンスと言っても過言ではない、僕に見えるのは迷宮の壁のみ、ほとほと盲目状態だ。それ故、抜け道がどこにあるのか知らず、そもそも、東西南北すらもわからない。  弥次郎兵衛の如く、絶妙なバランスで僕の理性は日常に立っていた。  何度も、あの家の前に行って、またピアノの音色に期待したり、インターフォンを押そうかと葛藤したことか。  しかし、それらはストーカー紛いの行動だ、僕は彼女に想いを伝える以上に、彼女に嫌われたくないのだ。  僕は彼女の前では完璧でいたい。だから僕は徹して、彼女と関わらないようにした。そうすることで、彼女は僕の欠点を知らずに生きることができる。  それすなわち、彼女は僕のことを何も知らない故、評価もできない状態にあることから、僕は彼女の前で完璧でいたい、という願望を叶えていた。  理想は汚したくない。言えることは、ただ一つ、現状維持こそ至高だ。
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