嫁の味噌汁

5/7

0人が本棚に入れています
本棚に追加
/7ページ
 それから、僕は何事も手付かずになってしまった。四六時中、おそらく彼女が弾いたであろう、ミレミレミシレドラが頭の中を堂々巡りして、何かにあぐねている。  勉強も、バイトも、家事手伝いも、ケアレスミスが多くなった。友達には変わった、と言われた。  しかし、それも仕方のないことだ。それほど、彼女は美しいのだから。  僕はあの家の表札を見ることにより、彼女の苗字を知った、とても美しく、彼女にベストマッチした苗字であった。  暫しの満足感。だが……  現状はラビリンスと言っても過言ではない、僕に見えるのは迷宮の壁のみ、ほとほと盲目状態だ。それ故、抜け道がどこにあるのか知らず、そもそも、東西南北すらもわからない。  弥次郎兵衛の如く、絶妙なバランスで僕の理性は日常に立っていた。  何度も、あの家の前に行って、またピアノの音色に期待したり、インターフォンを押そうかと葛藤したことか。  しかし、それらはストーカー紛いの行動だ、僕は彼女に想いを伝える以上に、彼女に嫌われたくないのだ。  僕は彼女の前では完璧でいたい。だから僕は徹して、彼女と関わらないようにした。そうすることで、彼女は僕の欠点を知らずに生きることができる。  それすなわち、彼女は僕のことを何も知らない故、評価もできない状態にあることから、僕は彼女の前で完璧でいたい、という願望を叶えていた。  理想は汚したくない。言えることは、ただ一つ、現状維持こそ至高だ。          ○  そうして、数週間が過ぎた。流石に毎日のように彼女の家の軒先で彷徨うのは、訝しまれても過不足ないので、家の前にはあまり、出向かないようにしていた。  先日、太陽は休むべきだとばかり思っていたが、今では、太陽にはもう少し頑張って欲しいと思っている。  いつの間にか、木枯らしが吹くようになるまで気温は低下し、季節は夏から秋そして冬に変わろうとしていた。しかし、僕の頭蓋骨の中に流れる、エリーゼのためには止まることを知らず、まだループを繰り返している。  今や残暑の暑さを懐かしく思う。  高校の植木も青々とした色から、朱が入り、黄色が入り、暖色に色めき始めている。季節の変化を感じるくらいは、僕の高校生活は平凡だった。  僕は匙を投げたんだ。どんなに想おうとも、僕は彼女をどうにかすることはできない。僕は一方的に出会い、片想いし、別れる。ただ、それだけのことだ。  なんとも、無力感。しかし、それで良いのだと僕は納得する。僕は蛇足でしかない、卑下なのかもだが。  その日も退屈な授業が続いていた。何度も睡魔に囁かれたことか、僕は悪魔の誘いを全て突っ返すのに多大な苦労を負った、おかげでヘトヘトだ。  帰宅のため、駐輪場を目指す、風が寒い。  と心胆を凍えさせる僕の元へ、ほっこりする音色が聞こえてきた、幻聴ではない。  誰もが一度は耳にしたことがあるであろう、著名なフレーズが、ミレミレミシレドラが微かに僕の耳朶を打つ。  僕は何かに取り憑かれたが如く、踵を返した。それから、韋駄天ばしりを敢行する。このピアノの音色は、おそらく、音楽室からだ、この高校にピアノはそこにしかない。  無論、このエリーゼのためにを弾いているのが、彼女である確率はゾロ目を三回連続で出すレベルで低い。しかし、僕はその音色が彼女の物だと信じてやまなかった。条件反射と言ってもいい。  スチール製の下駄箱に、乱雑に革靴を押し込み、上履きに履き替えるのも億劫で、靴下のまま走り出す。完全に正気の沙汰では無い。  僕はエリーゼのためにの軽快なリズムに身をやつし、微笑を浮かべ、衝動のまま手足を動かす、それは制御不可能だった。  廊下にちらほら点在する生徒たちを縫うように掻い潜り、廊下を走り去る。廊下は走ってはいけないと、小学校から口酸っぱく言われてきたが、ルールは破るためにある。  肺が破けそうだがお構いなしに階段を駆け上がる。疾駆する僕はまるで風の如く、四階にある音楽室に猪突猛進。  とは行かず、日頃の運動不足故か、三階で限界を迎え、立ち止まり、膝に手をつき、肩で息をした、肺胞が酸素を求む。  それからは、なぁなぁなペースで音楽室を目指し、やっと、到着する。  中から、超絶技巧なエリーゼのために、が漏れ出ている。  音楽室の引き戸を前に、僕の理性はリブートした。もし、演奏者が彼女だったとして、僕は何を語れば良いのだろうか? そんなこと、走っている最中は思いもしなかった。  僕はただ彼女に会いたい一心で、走った。それ故、計画性は皆無。  衝動が一気に収束を見せる、ここまで無我夢中で走ってきた自分が途端にバカらしく思えた。あろうことか、僕はなんと僕らしくなく、衝動に、欲求に身を任せてしまったのだろうか。  僕は理性に取り憑かれたが如く、踵を返そうとする、僕は中で軽やかにピアノを弾く彼女の邪魔をしたくはなかったのだ。  何にごとも控えめに……  と、その時、僕は不意に転けてしまった。なんの脈絡もなく、狙った訳でもなく、転けてしまった、と言う結果のみが残る。  原因は靴下だ、靴下の摩擦力の低さ故だ。  そして、僕は転ける際に人間の習性で、引き戸の取手に手をかけてしまい、終いには引き戸が盛大な音と共に開けひろげられ、無様にも転けてしまった僕が音楽室の中にいる銘々に晒される。  それだけでも赤面ものなのに、その銘々の中には、不幸か幸運か、彼女がいた。ドキッとする、色んな意味で。  運命のイタズラかと勘ぐる。いや、その考えは驕りだ。  僕はすぐさまに立ち上がり、制服についた埃を手で払い落とし、平然を装った、空咳を虚空に一つ放ち。 「いや、聴き入ってしまって、ピアノを弾いていたのは誰だい?」  何を思ったのか、その時の僕はそう言った。彼女が怯える小動物の如く、手を上げる。  それが、僕と彼女のファーストコンタクトだった。手の施しようがないほどには、初印象は最悪だったことだろう。          ○  それから、僕は彼女の弾く類稀な演奏に惹かれたと、音楽家のようなことを言い、彼女と会う口実を作った。  彼女は困惑しながらも、快く僕の申し入れを了承してくれた、申し入れとは、吹奏楽部が休みの日の放課後に、ピアノを演奏してもらい、それを僕が傾聴すると言った。側から見ればとんちきにも、青春らしいものだった。  口実については、些か遺憾に思う。完璧な嘘でないとは言え、彼女のピアノを理由に近くのは、心苦しい。  僕は彼女のピアノに興味がある訳でなく、彼女に興味がある訳で、彼女に接近するため、彼女の美しい演奏を足がかりにし、貶すのは少し気が引けた。  だが、それは仕方のないことだった。  曰く、彼女は京都から、親の仕事の都合で、東京に越してきたらしい。そして、家から一番近くにあったこの高校に転入してきたと、教えてくれた。  僕は学内情報に精通していなく、同学年の事情にすらうといので、一年の元へ彼女が来ていることは知らなかった。盲点だった。  その後の経過報告は概ね順調であり、家が近隣なことから、帰宅を共にしたり、僕らの仲は急速に縮まりを見せる。  最初はピアノの話題が多く会話に上がった。無論、僕はピアノについて無知同然、故に彼女と会話レベルを同等にするべく、ネットを使用しピアノについて調べてまくった。甲斐あって、僕は彼女よりピアノのことについては詳しいと自負の念を持つまでになった。  その内、ピアノよりも会話の方が盛り上がりを見せるようになる。  話題は担当教諭の愚痴に移ろい、更に、日常であった、何気なく面白いことを語ったり、彼女は本を読むようなので、僕はオススメの本を教えたりもした。  僕の愛読書はもっぱら太宰治で、人間失格なんかに僕はハマった。共感したんだ、大庭葉蔵に。  変わって、彼女は小難しい哲学書を読んでいた気がする、確かカントの著書だった。判断力批判であったり、実践理性批判であったりと、僕には到底理解もできないような本ばかりを、彼女は読み入っていた。  まぁ、周りの人がカントを時計代わりに使うほど、カントは真面目な人物として有名だ。彼女の性格がそれに合ったのだろう。  しかし、よく哲学を記した書物を読もうと思うな、カントの哲学書は西洋哲学の中でも屈指の難しさを誇るとネットに書いてあった。なに、彼女が真剣に読んでいる様を見て、少し興味が湧いて調べたんだ。  彼女の持つカントの本を借りさせられたこともあった、読んでは見たが結果は数行で撃沈、劣悪な文字列、意味を成しているとは到底、思えない。それでも彼女のため果敢に読み進めた。  彼女は、よくこの本を好んで読み続けることができるな。それはピアノが起因しているのかもしれない。  ピアノは学力の向上に影響すると聞いた。東大生のほとんどは、幼少期にピアノを習っていたという話も小耳に挟んだことがある。  彼女もまた、その法則に則っているに違いない、理知的な瞳がそれを物語る。  大いに話が逸れてしまったが、かくして、僕たちはすこぶる懇意になったのだった。          ○  ある日の放課後。  紅葉はすっかり散り、心地よかった風は、冷たい冬の棘へと変わる。最近はめっきり冷え込んで、凍てつくような寒さに震えるのだが、不思議と心は暖かかった。  なぜか? 彼女が隣にいるからだろう。  希薄で澄んだ陽光が、大きな窓ガラスを通過し、音楽室の床を照らす。  外からは寒冷なのにも関わらず、体操着で走り込みを行う運動部の掛け声が聞こえて来る。こんなにも寒いのに、殊勝なことだ。  僕はオーストラリアに避寒したい気分に駆られる、勿論、彼女の随伴は絶対だ。  そんなことを思いながら、いつものように僕は彼女の演奏を聞いた。彼女はエリーゼのために以外も、色々弾いてくれ、今日はラ・カンパネラを聴かせてくれた。  ラ・カンパネラはリストのピアノ曲の中で最も有名であり、一番の難曲である。  リストがウィーン式と呼ばれるピアノで一度、その曲を弾けば、ハンマーが折れたり、弦が切れたりしたそうだ。  それほどの激奏にも関わらず、彼女の演奏は清く洗練されていた。  凄まじい技術だ、彼女は将来、ピアニストでもなるつもりなのだろうか? 訊いたところ、趣味だと答えたので驚きだ。  鍵盤を弾く彼女は、いつもの清楚然とした見た目からは想定できないほど、百花繚乱としている。  僕は毎度見惚れてしまう、胸が高鳴り、煌めきを覚える。  演奏が終わり、僕は控えめな、ささやかな拍手を送る、本当は喝采したいのだが、あんまりはしゃぐのは年甲斐もなく、彼女もそれは望んではいないだろう。  しかし、彼女の演奏を一人占めできるとは、なんと至福で甘美なモノなのだろうか? 僕は優越感に浸る。  彼女は僕の拍手を受け、鍵盤から僕の方にヘソを向かせ、ペコリとお辞儀をする。長髪が礼に連動し揺れる、顔にかかった髪を彼女は耳にかけ、ニッコリ笑った。可愛い。  そして、唐突に、 「私のこと、好きですか?」  驚いた。心臓が握り潰されるかと思うほど、キュッとする。何を言い出すんだ、そんな無邪気な顔で。  僕は完全に不意をつかれ、聞き返した。 「そ、それはどういう意味だ?」 「そのままの意味です」  僕をからかっているのか? 分からない、質問の意図がわからない。  僕は彼女のことが好きだ、それは違いなく自分のことなのでよく分かる。故に、僕は君のことが好きだ、と答えるのが普通。  しかし、その行いは憚られる。僕の恋愛的な好意を彼女が悟って、鎌をかけているなどあり得ない、そうだ、きっと、あり得ない。  おそらくだが、からかっているに違いなく、彼女の小悪魔同然のそのスマイルが、それを物語っている気がする。  ここで、短絡的にも、軽薄にも、本心を激白すれば、彼女は僕のことを嫌いになるかもしれない。だって、好きでもない奴からの告白ほど気持ち悪いものはないからな。  己を過小評価しているのかもしれないが、逆に過大評価し、驕り高ぶるのは恥である。故に僕は、理性に従い、恥を回避することにした。  脳が高速回転を終了し、一息ついてから、僕は言葉を発する。 「好きだぞ、もちろん、友達的な意味合いでな」  できるだけ平然を装ったが、声が少し上ずったかもしれない、証拠に、彼女が僕に胡乱な目線を向けてくる。  ブラフが看破されたか? いいや、こういう時こそ、落ち着くんだ。慌てふためいても良いことなど何もない。混乱を呼び込むだけである。  心臓がバクバク鼓動する、自分の発言が頭の中を廻り、反響する。呼吸がしづらい。 「そうなんですか」  彼女は素っ気なくそう呟いた。  張り詰めていた何が、一気に弛緩する。溜息が漏れた。 「先輩、私また、引っ越すことになりました、京都に戻るんで」  彼女はまた、あっけらかんに言った。  彼女の唐突で、衝撃の告白に、僕の思考がフリーズする。 「じゃぁ、先に帰らせてもらいます」  そう言って、彼女は僕の横を通過し、音楽室を出て行った。引き戸が閉まる音が虚しく響く。残されたのは僕と、彼女がいた痕跡である残響のみ。  寂寥感が音楽室を澱ませる。          ○  家に帰った僕は、ベットに体を預けた。まだ、五時だというのに、辺りは夕闇が支配していた。  僕は音楽室での一件を思い出す。あまりにも、話が唐突だったので少し整理しよう。  彼女は僕に好きかどうかを訊いた後、京都に引っ越すと言った、それはそのままの意味で受け取って良いのだろうか?  いや、ここで、彼女の発言の真偽を問うのはやめておこう、どうせ、考えたところで確証は得られない、故に本当だと仮定する。第一、彼女が嘘をつく理由が存在しないからな。  ということは、彼女は本当に京都に戻ってしまうことになる。それはとても由々しき事態だ。せっかく、彼女と懇意になれたというのに、それが無下になるなど、我慢ならない。  これから、僕のスウィートライフが始まるってのに、始まる前に終幕を垂らされては、どうしようもない。  僕は足を振り上げ、反動で立ち上がり、彼女の家を、自室の窓から見つめた。  彼女を初めて見た日から、今までのことが、走馬灯の如く、脳裏を駆け巡る。 「あー、考えるのはやめだ」  僕はドアを蹴破る勢いで部屋から飛び出し、慌ただしく階段をドタバタ降り、廊下を駆け抜け、外に出た。  そして、彼女の家を目掛け、走る。走るまでの距離でもないが、その時は一刻でも惜しく感じられた。  彼女の家の戸口へと着く、門柱の前に立ち、しばし、僕はインターフォンと睨めっこした。  どうせ、彼女は引っ越すんだ。だったら、己の本心を激白し、次に繋げるのが、賢明な判断。別に彼女に嫌われてもいい、言わなきゃ、確実的に一生後悔する、それは避けるべきだ。  腹を決める。  力んだ人差し指で呼び鈴を押した。ちょっと待ち、彼女が出てくる。 「どうしたの?」  そう言う彼女は、華奢なシルエットに合わせた、白いワンピースを着ており、まるで現実と乖離した天使のようだ。  僕は喉元に差し掛かる固唾を飲み込み、口から臓物を引きずり出すような覚悟で、言葉を紡いだ。 「君が好きだ、もちろん、恋愛的な意味でな」  平然を装ったが、やはり、声は上ずる。  僕は怖くて目を瞑った、嫌悪に歪む彼女の顔を見たくない、いっそのこと、罵詈雑言で僕を完全に拒絶して欲しい。  目蓋を強く下ろす。  すると、可憐な匂いが鼻腔に届いた。次の瞬間、驚くほど柔らかな感触が唇を刺激する。僕は思わず目を開けた。  眼前には彼女の顔があった。  と、まぁ、こんな感じで僕は彼女と付き合うことになったのだった。  それから、彼女は京都に引っ越し、その間は長期休暇中に会いに行ったり、文通を交わし、想いを馳せたりした。  それで、社会人となった僕たちは、東京で挙式をあげたのだった、一年前のことである。
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加