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夢で嫁との馴れ初めを見た。うむ、良い思い出である。しかし、酷く長かったことをここに謝罪しておこう。
それで、電車内でうとうと寝てしまった僕は、嫁の声で目覚めた。どうやら、目的地の最寄駅に着いたらしい。
東京の休日、更には近くに観光地があることから、雑踏はえげつなかった。人の群れが黒い塊となり、忙しなく流動している。
僕らは、はぐれないように、がっしりと手を握り、人の間を掻い潜り、昼ごはんを食べる予定のカフェを目指した。
五月晴れのその日は、過密化の影響もあってか、少し汗ばむ。頭上にあるお天道様が、暑さのバーゲンセールを行ってるらしい。
僕らは額に汗を浮かべながら、モダンなカフェまで辿り着いたが、三十分待ちの看板が目に入り、落胆の溜息をついた。
渋々、列の最後尾に移動する。
「ねぇ、どんな味かな?」
嫁は、ハンカチで汗を拭きながら訊いてきた。
「うん、美味しいと思うよ」
僕らは列に並びながら、パンケーキの味を想像する、結果、空腹が加速。
やっと、僕らの番になり、入店する。店内は程よく空調が効いていて心地いい、店員に案内され、席に座った。
お客のほとんどは若い女子が多かった、しきりにパンケーキの写真を撮っている、今流行りのインスタ映えというやつだろう。
強烈なまでにかぐわしい匂いが鼻を掠める。
メニューを受け取った、意外と高いのだな。とりあえず、
「僕はこれにするよ、君は?」
「私もそれにするわ」
店員を呼び止め、注文、パンケーキが運ばれてきたのは、五分後くらいだ。
マンゴーとかブルーベリーとかにどっかり囲まれた要塞、と言った風情の重量級のパンケーキだ。まぁ、要するに、田舎女子がいい夢を見れる程度には、派手で厳ついパンケーキだった。
僕らはいただきますを言って、フォークでケーキを一指し、ナイフで切り取り、口に運ぶ。
っむ! なんだこれは、味が濃い! 恐ろしく甘い、甘たるい。何というか、砂糖をプレスして糖分を凝縮した何かを食べているような感覚だ。
正直微妙だ。腑抜けたような、かつ、執拗な甘味を感じる。
僕は思わず、パンケーキにかかっているシロップをフォークで皿の隅に寄せ、フルーツと一緒に食べることにした。
見た目は最高だ、フワフワの生地の上、宝石のようなマンゴーが乗っている。
一口。うむ、今度は味が薄い、何だこれは? 乾パンの如く口内の水分を奪っていくパンケーキに、マンゴーは甘みがなく、味の無い寒天のようだ。
お世辞にも旨いとは言えないな。
恐らく、パンケーキの足りない甘みを、シロップの甘さで補おうとしたのだろうが、調和するどころか、二つの味が喧嘩をしている。無論、別々に食ったら当たり前に不味い。
ネットの評価を見て、ハードルを上げすぎたのかも知れないが、三十分待たされこれとは、正味ガッカリだ。と言うか、ネットの奴らの味蕾を疑う。
僕の食に対しての運パラメータの低さが露呈する、このパンケーキの味は嫁の味噌汁に酷似していた。
ふと、嫁が気になり、難攻不落のパンケーキ要塞から、嫁の方へ視点を上げた。嫁も僕同様、顔を顰めてブルーベリーで口直しに耽ているところだった。
「あまり美味しくないわね、パンケーキは味が薄いし、シロップは味が濃すぎ」
嫁は、大変遺憾そうに言った。
「ああ、同感だ」
僕はそう応えた。
……言い知れぬ違和感、嫁の手料理は薄味だ。であらば、シロップを濃いと感じるのは良いとして、パンケーキの薄味には気付くものなのだろうか?
毎朝、嫁は味噌汁の味見をしている、嫁の味覚が正常に仕事をしているのであらば、己の味噌汁の薄味を自覚していなくてはおかしい。嫁は自分の作った料理を贔屓しているのか?
しかし、僕が朝食を食べる際に向ける、あのしたり顔、自分の料理に自信がある証拠だろう。となると、嫁は自分の料理を食べる際にだけ馬鹿舌を発揮するという、特殊体質なのかも知れない。
だとすれば、僕は尚のこと、嫁の料理に口出ししない方がいいだろう、認識の齟齬は争いに発展する可能性が高いからな。
僕らはマジノ戦線並みに堅固な要塞を、残すと言う別手段を用いて攻略し、店を出た。
先ほどまで五月晴れの空は、いつのまにか曇天が陰って、少し肌寒い。
「これから、どうする?」
嫁は露出した二の腕を摩りながら、訊いてきた。
「この近くにストリートピアノが置いてあるらしい、久しぶりに君の演奏が聞きたいな」
僕は喉の奥を鳴らして言う。嫁は「仕方ないなー」と言いつつ、快諾してくれた。
ピアノはショッピングモールの中に特設されているというので、僕らはそこを目指す。
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