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場所にそぐわないグランドピアノがそこにあった。
嫁はコツコツと歩き、ピアノの前に座る、僕はそれを数メートル離れた位置から眺めていた。
開幕を知らせる、ミの三連続、から流れるようにハイテンポに嫁は鍵盤を叩いていく。美しい旋律だ。
曲はラ・カンパネラ。
嫁はピアノの魔術師に憑依されたが如く、リズミカルに、力強く弾いている。
ギャラリーもチラホラと増え始め、皆が嫁の演奏に圧倒され、感嘆と嘆息をつく。あっという間に、周囲には人溜りが出来た。
後ろのカップルの話し声が聞こえて来る。
「あの人の右手すごーい、どーなってんの?」
と、大学生くらいの女の子が言った。
「ああ、すごいな。この曲を作曲したリストは知っているだろう、彼はモテたいがためにこの曲を作曲したと言われている」
男は何やらウンチクを披露する気らしく、僕は耳をそば立たせる。
「ほら、ピアノはお客に対して、右側に設置されるだろう、そして、弾き手は左側、必然的に一番動く手が客の方を向くようになる。この配置を決めたのはリストなんだ、全てはモテるために」
「へぇーそうなんだ、物知りなんだね」
そうなのか、初耳だ。
しかし、嫁の演奏は素晴らしいな。お金を取っても差し支えないレベルなのに、これが趣味とは勿体ない。今からでもピアニストを目指せば、その美貌と技術力の高さから、トップに躍り出てもおかしくはないだろう。
まぁ、そこらの界隈については、あまり知らないので、現実はもっと難しいのかもしれんが。
それに、嫁がピアノに心血を注ぐようになれば、僕と一緒にいる時間も減りかねない、やはり、今が一番だ。
鐘を聴いていると、いつぞやの日が想起される。あの時は 毎度見惚れてしまい、胸が高鳴り、煌めきを覚えていたものだ。
今はどうなのだろうか? 確かに嫁の演奏は素晴らしい、しかし、あの時感じていた、煌めきトキメキなどは僕の胸には無かった。
何故? 年を取ったから? ないし、思い出補正か? 分からない。
僕が考えていると、嫁はより一層ピアノを叩く、その姿は威厳に満ち溢れ、侮り難い雰囲気が、ピアノの音と共に、厳かな雰囲気を作り出す。一体感と言えばいいのだろうか?
クライマックスは何故かミスタッチが目立った気がしたが、しかし、それでも、演奏は圧巻のものであり、終幕を迎える。
嫁はギャラリーになんとなく、お辞儀して、垂れ下がった髪を、耳にかける。観客たちは、惜しまんばかりの拍手喝采を嫁に向けた。嫁はもう一度、深く一礼して、丸椅子を立ち、戻ってきた。
僕はいつものように嫁にささやかな拍手を送る。
「いやー、相変わらず凄いな」
僕はそう、にこやかに言った。しかし、嫁の顔は苦虫を一ダース単位で噛み潰したように、歪んでいた。
「どうしたんだい、調子が悪いのか」
僕は訊く、しかし、嫁は黙りこくったまんま、俯き項垂れる。様子がおかしい。
「ごめん、もう、無理だわ」
嫁はそう言って、僕の胸を押した。反動で半歩後退、嫁の方を見やると、嫁はどこかへ走り去ってしまった。
突然の出来事に頭は混乱する、何か気に障ることでもしたか? 自問自答、いいや、してない。では、何故?
○
僕はしばらく呆然とその場に立ち尽くしていた。数分経ち、僕のCPUが再稼動を始めると、僕は嫁の走っていた方に向かっていた。
嫁はヒールだ、まだ、遠くまで行っていないはず、嫁は僕の全てだ。嫁がいなくなった僕は薄志弱行の廃人に等しい。何か気に障ることをしてしまったのなら、素直に謝ればいいんだ。
僕はモール内を迷惑にも駆け巡り、嫁の捜索に骨身を惜しまず一心に挑んだのだが、とうとう、嫁を見つけることはできなかった。
一時間余り走り回ったせいか、僕は疲れ果てベンチに座り込む。
そうだ! スマホで連絡を取ればいいじゃないか。天啓の如く閃きがおりる、余りにも嫁を見つけることに過集中し過ぎたがため、忘却していた。
と言うわけで、嬉々として嫁の携帯に向け電波を飛ばす、三度の呼び出し音がとてもじれったく感じた……
ダメだ、出ない。大きな溜息が垂れる。
ふと、スマホの通知に目が入った、どうやら、ヤフー知恵袋の返信が来ているようだ。万事休す、ここは心を休ませるためにも、賢者の回答を見て一息つこうか。
質問
結婚一年目の新婚です。
奥さんの料理が壊滅的に美味しくありません、奥さんを傷つけずに美味しい料理を作らせてやることはできませんか?
無理なことを承知の上、質問しています。
ベストアンサー
汝の意思の格率(マキシム)が常に同時に普遍的な法則(律法の原理)として妥当しうるように行動せよ、これはカントの言葉です。
まぁ、つまり、あなたが本当に奥さんを愛し、信頼し、上記の通り行動しているならば、味噌汁が不味いと言えるはずです。あとは、どうにかなるでしょう。
不親切極まりないベストアンサーだった、意味がさっぱりわからない……が、僕の脳裏に高二の冬がフラッシュバックする。
嫁にカントの本を借り、四苦八苦しながら、意味を解読したり、解説本を読んだりとした記憶だ。
確か、ベストアンサー上部のカントの言葉の意訳は、己の行動基準がどこに出されても恥じぬものにせよ、みたいな意味だった気がする。
僕はどうだろうか? 道徳的に生きてきたのだろうか? 嫁の味噌汁を美味しいと言ったのは、果たして良かったことなのだろうか?
そして、これに付随するよう、もう一つ重大な格言があった。目眩く記憶が蘇る。
「汝の人格の中にも他の全ての人の人格のなかにもある人間性を、汝がいつも同時に目的として用い、決して単に手段としてのみ用いない、というようなふうに行為せよ」と、これまた、難儀だが、意訳は人間を手段として扱うのではなく、目的として扱うべきと唱えた言葉であった。
さて、僕は人をしっかりと目的として見ているのだろうか?
答えはNoだった。主に嫁に当て嵌まる。
嫁は限りなく素晴らしい。
……けれども、しかし、だが、でも、理想ではない。
僕は理想を追い求めていた、それはあの秋、嫁が窓から顔を出しているところを見て、一目惚れをした際から変わらなかった。
僕は単にイデアを見て、そこに近づくために嫁を手段として、扱ってきた……
僕の観念が百八十度方向転換を呈した。
カント的に言えば、僕の猫のような生き様は軽蔑に値するだろう、笑えてくる。
自嘲を愉んでいると、豁然的に一つの仮定が舞い込んできた。嫁はこれまで僕にカントの考えを理解させるため、色々やってきたように思える。
カントの本を僕に貸すところから始まり、今日のやけにミスタッチの多い演奏も、嫁はミスタッチを僕に指摘して欲しかったのかもしれない。
そして、味噌汁もそれしかり、嫁は故意に己の味噌汁や朝食を薄味にし、本音を僕に言わせたかったのだ、「不味い」という。
そもそも、嫁は完璧に近しい、そんな嫁が料理が下手なんて属性を持っているはずがない。
とにかく、嫁は僕から、理想とはかけ離れた、僕の本音を聞きたかったのだ、多分。
無論これは、あくまで仮定だ、しかし、もしそうなのであれば、なすべきことは明白である。
僕は立ち上がり、嫁の捜索を再開した。
○
僕はモールを出た、外は夕闇に包まれており、人通りは閑散としている。モールから少し歩いたところに併設されている、広場に嫁は佇んでいた。
遠目で確認した嫁は、何かに苛まれたような趣を放ち、円形の広場の中心に立っている。
僕は小走りで近づき声をかけた。
「ごめんなさい、さっきのは気にしないで、私が間違っていたの」
彼女は上目で、僕を視認するなり、憮然とそう言った。
「いいや、間違っていたのも、謝るのも僕だ。本当にすまない」
心からの謝罪をした。謝り切っても許されないほどの罪を僕はしでかしたのかもしれないのだから。
脈が早まる、心臓がバクバクなる、動悸がやまない。しかし、僕は勇気を多分に発揮して、
「今から、僕を……本当の僕を言う」
下方を向いていた彼女の顔が上がり、理知的な瞳が僕を見る。この娘、守りたい! その一心で、僕は緊褌一番、勇足一歩彼女に近づき、言い放った。
「君の味噌汁は不味い!」
僕は怖くて目を瞑った、もし、仮定が間違っていた場合の嫌悪に歪む嫁の顔は見たくはなかった、いっそのこと、罵詈雑言で僕を完全に拒絶して欲しい。
目蓋を強く下ろす。
すると、可憐な匂いが鼻腔に届いた。次の瞬間、驚くほど柔らかな感触が唇を刺激する。僕は思わず目を開けた。
眼前には嫁の顔があった。
空を覆う曇天が晴れ渡る、そんな気がした。
リズミカルに数歩下がった嫁は、小悪魔のような笑みを見せて、
「もっと、早く言ってよ」
心の琴線が弛緩する、どうやら、僕の仮定は立証されたようだ。
それから、僕たちはあつい抱擁で、確かに互いを確認しやった、虚構ではない、本当の嫁を。
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