嫁の味噌汁

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 猫の生態を熟知している訳ではないが、僕の生き方は猫の生き方に似ていると思う。自分を俯瞰するとそう思うんだ。  だから、孤独心が人一倍強かったり、高いところが好きだったり、夜行性であったり、そう言う訳ではない。  むしろ、逆と言っても相違ない。  誰かと一緒にいたいし、高所恐怖症だし、夜は十時までには寝てしまう。  では、なぜ、自分が猫のような生き方をしていると思うのか? それは、何かをひたすらに隠しているからだと、僕は思う。  他人に己の本性を悟られるぬよう、いつも、自分の理想だと思う自分、言ってしまえば、美学のようなものを掲げ、生きてきた気がするんだ。  猫は己の最期を飼い主に見せないと言うだろう、それに似た美学を僕は守り、秘密を抱えて生きている。  こう言葉にして説明すると、実に共通点の少ないこと極まりないな。  僕の美学、など格好いい言葉を使ったが、そこまで大層なものではない。  僕はただ自己嫌悪に陥り、自分を隠匿するため、自分の思う理想を演じてきただけだ、だからか、僕は本当の自分と言うものを深くは知らない。  常に、なにかを装うことに身をやつしてきた性分だから、僕は何でも許容してしまう。  しかし、これだけは解せない。ネタでも、なんでもなく、解せないんだ。と本当の僕が叫んでいる。  この味噌汁の味、ふざけているとしか言いようがない、おかしい、イカれている。味が薄すぎる。  僕が毎日飲んでいる、この味噌汁だが、どうも味が薄い、と言うか、もはやこれは白湯である、白湯以外の何物でもない。  白湯に豆腐とワカメが浮いてるだけの、味噌汁とは似て非なる何かだ、吸い物かなにかかとも思ったが、それも違う。言うなれば、タレなしの水炊きだ。  そして、僕はこの美味しくない味噌汁を毎日、飲み干さなければならない、それも旨いと言いながら。  なぜ、僕が虚勢を張らなくてはならないのか、それはこの味噌汁が、僕の愛する嫁により、手間暇かけて、愛情を注いで作ってくれた、味噌汁だからだ。  そんな、愛おしい愛くるしい味噌汁を不味いと一蹴するような、薄情なこと、僕には出来ない。  そもそも「味噌汁が不味い」など僕の性分からすれば、言えたもんではなかろう。  そんな訳で、僕の前には味が薄めの朝食が並んでいる。薄味は味噌汁のみならず、他の料理も然りであった。  したり顔の嫁がまじまじと僕を見つめている。  その顔が悪意に満ちた微笑に見えてしまうのは、僕がこの暴力的な朝食の味を知っているからだろう。 「どうしたの? 食べないの?」  あざとく小首を傾げる嫁、なんと美人なのだろうか、見ているだけで泣きたくなるほど美しい。  僕が彼女と一つ屋根の下、寝食を共にしていることは、奇跡にも等しいだろう。  我が人生において最大の幸運だといっても過言ではない、それくらい嫁は器量がよく、それでもって美人だった。  理知的な瞳に、あどけない唇、整備の行き届いた艶めかしい長髪に、白い首筋、見ているだけで、意欲がかき立つ。 「いや、君に見惚れてしまって、今日も美味しく食べさせてもらうよ」  嫁は前半事実の後半リップサービスに、頬を赤らめた、とても可愛い。一家に一人、我が嫁ってところ、バカ売れ間違いなし。  今のやり取りからも分かるように、僕たちは新婚だ、一年前に挙式をあげたばかりのアツアツに他ならない。  僕は今幸せの渦中にいる、そんな中、水を刺すのは嫁の手料理である。これさえなければ、完璧なのだが……  僕は生唾を飲み込み、食卓に広がる、薄味の混沌に目を向けた。  白米に焼鮭、漬物と卵焼き、そして味噌汁。見ているだけで溜息が吐露する。  嫁の地元は京都だ、だから、薄味なのかもしれない。変わって、僕は東京出身、国内カルチャーショックか?  風土的に関西の味は繊細だ。何せ、天下の台所と称されているのだから。  しかしそれは政権が江戸幕府にあった時のことであり、現代の関西は、関東よりも欧米に近い食事をとっていると、テレビで見た気がする、もはや、味の違いなど迷信なのかもしれないな。  それにしても、嫁の料理は間違いなく塩が、胡椒が足りていない。刺激がないのだ、味に。  焼鮭も卵焼きも味噌汁も、無味無臭。味のなくなったガムに等しい、素材の味がーーとかなんとか言うが、そんなものはない。焼鮭の磯の味も、卵の甘味も、豆腐の豆の味だって、嫁が一手間加えることにより、あらま、びっくり、それは軍用食バリの味わいに早変わりだ。  なぜ、こんなにも不味い飯が作れるのか、不思議でならない。 「ねぇ、どうしたの?」  嫁は眉根にシワを寄せ、問う。  僕がなかなか、朝食に手をつけないことを訝しんだのだろう。僕は慌てて作り笑いを浮かべた。 「ああ、今食べるところだ」  意を決して、卵焼きを食べる。ひどく水っぽく、全く味がしない。  漬物で箸休め、漬物は市販を買ってきているので旨い、これだけが僕の心の拠り所である。  しかし、漬物ばかり食べていると、怪しまれるので、適度に合間をあけ、食べなくてはならない。  次に焼鮭、骨が抜かれていて、とても食べやすいが、それは、味が良ければの話だ。  前述の通り、旨味はどこかに消え去り、あるのは無機質な鉄のような触覚、とても、食べられたものではない。  しかし、朝食を食べる僕に、嫁はこれ以上ない笑顔を向けてくる。この笑顔、守りたい! その一心で焼鮭を食す。  頑張れ、僕!  やっと、焼鮭の半分が僕の胃袋に移動し、箸休めの漬物で口直しをする。その後、ひたすらに白米を咀嚼し、デンプンの微かな甘みに舌鼓を打った。  暫しの至福。  次に、ラスボス級の最悪な味わいを持つ、味噌汁。綺麗な琥珀色の液体に浮かぶは、純白の豆腐と青々しいワカメ。視覚的に美味しいと脳が言う。  だが、それは錯覚だ。コイツはミミック、油断し近づいた所、絶望の淵へと突き落とす、凶悪な輩。僕も最初はこのトラップに引っかかってしまい、以来、拒否反応を起こしている。  この味噌汁がひどく邪悪に富んでいるのは明白、しかし、僕はこのトラップを避けて通ることはできない。  そこに罠があることを知って、自らその災禍に足を踏み入れるとは、惨めに他ならなく、僕は毎日そんな地獄を味わってきた。  やはり解せない。 「今日のお味噌汁はね、良い出汁を使っていつもより長く煮込んだのよ」 「そ、そうなのか、それは楽しみだなー」  動揺による棒読みの応対だったが、運良く、嫁は僕の本心に気付いておらず、僕を快活な表情で凝視。  これは飲まずを得ない状況、大丈夫だ、味覚を知覚する前に、一気に食道に流し込めばそれでいい。お腹の中に入ってしまえばコッチのもんだ。  全身の空気を吐き出し、豆腐とワカメ、それから白湯もどきをかきこむ。 「ッヴ! ゲホゲホ……」  勢いよく飲み込みすぎて、むせてしまった。 「もう、美味しいからって慌てない」  そう言いながら、嫁はナプキンで僕の口を拭いてくれた。  幸せが全身にじんわりと伝わる。なんと、気分の良いことか、この味噌汁が嫁の認識通りなら完璧なのだがな。  しかし、とりあえず、僕は味噌汁を器から無くすことに成功した、一番の難関は乗り切ったぞ! 「おかわり沢山あるから、溢した分よそってくるね」  絶望が脳裏を過ぎる。  嫁は器を手に取り、パタパタとスリッパで音を立てながら、キッチンに消えて行った。  嗚呼、美味しい料理が食べたい。なんてのは、強欲なのだろうか?  欲しがりません勝つまでは、と言うが、アレは全体主義が生んだ迷言だ。もし、その言葉が今の状況に当て嵌まったとしても、勝つのは一体いつになることやら。  この苦行は、おそらく未来永劫続くはずだ、それが僕の幸せであり、苦しみでもある。
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