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第1話 日常Ⅰ
綺麗な満月の夜だった。
夜空には満天の星が瞬き、月明かりは夜道を明るく照らしていた。
少年――鷲宮悠月は父親に手を引かれながら何処かへと〝行く〟途中であった。
思い返せば、何故父親に手を引かれていたのかも覚えていない。ただ、時折吹く風が冷たくて、父の手の温もりを離すまいと必死になって掴んでいたことだけは覚えていた。
〝なぁ、悠月。お前は大きくなったら何になりたいんだ〟
唐突に、鷲宮仁は息子に問いかけた。
〝何にって……どういうこと?〟
見上げなければ横顔を拝めないほど父の背は高かった。
表情は見えない。真っ直ぐに正面だけを見つめていて、何を想っての質問なのか幼い悠月には意図を汲むことすらできていなかった。
〝どういうことって……うーん、そうだなぁ〟
仁は困ったように苦笑した。まだ言葉の意味すら理解できていないだろう息子にどう真意を伝えたらよいものか、頭を悩ましているのだろう。
〝お前がオレと同じくらいに大きくなって、あのお星様がもっと近くで見れるようになったらどうしたいかってことだ〟
馬鹿である。幼心にしてみればより一層難解になったと断言してもいい。しかし、父と同じくらいになったらというワードでどことなく悠月は理解ができたらしい。
〝お父さんと同じくらいになったらかぁー〟
そうして悠月は考える。数多ある星々を見上げながら将来自分が何者に成りたいかを。
〝僕、お父さんみたいになるよ! お父さんみたいな凄い――――に!〟
ノイズが走った。肝心な部分が聞き取れない。
そう、これは夢の中の出来事だ。遠い昔。物心すらついていない頃の過去を思い返すなら記憶の欠落くらいはあるだろう。
〝……そうか。それは参ったな〟
ただ、自分の答えに父が酷く悲しそうな表情を浮かべたことだけは鮮明に覚えていた。
〝ねぇ、お父さん。もうすぐ来るよ、あの――――お月様が〟
見上げた月が悠月の瞳に堕ちてくる。
手を伸ばせば届きそうな丸い月。それは何よりも美しく、蒼く澄んでいた。
「悠月……ねぇ、悠月。起きて、朝だよ」
「……なんだよ、玲愛。まだ学校に行く時間じゃないでしょ。もう少し寝かせてよ」
ゆさゆさと体を揺さぶられて悠月は強制的に意識を覚醒させられた。
妹の鷲宮玲愛。聞き慣れた声であった。
黒のロングヘアー。肩より少し長い髪が垂れて悠月の頬に触れている。微かに良い匂いがするのは妹の手入れが行き届いている証拠か。いずれにせよ、少年が目覚める朝の刺激にしては些かばかりに興奮度合いは強めであった。
「駄目。今日はお父さんと朝稽古する約束だったでしょ。お父さん、もう道場で待ってるよ。
早く行かないと」
「稽古? 冗談でしょ。稽古はいつも夜にやってるんだ。朝なんて御免だね」
「はぁー。やっぱり忘れてる。お父さん、昨日は夜勤だったでしょう。だから朝一番の稽古なの。寝る前の軽い運動。意味わかる?」
「やっぱり行かなきゃ駄目かな」
ぬっと布団から顔を出した悠月は抗議の視線を玲愛に向けた。
真正面。布団を挟んで数十センチと離れていない妹の顔がすぐ近くにあった。
「アタシに言わないで。直接お父さんに聞いてみれば? 怠慢で拒否るのは許さないんじゃない。多分だけど」
一瞬の静寂。やはり妹の整った顔は間近で見れば綺麗だ。兄である悠月だからまだいいものの、だからこそ悠月も兄としてここは注意せざる終えないだろう。
「あのさ。前々から言ってるけど起こす時にマウント取るの止めない? 重いし、柔らかいしちょっと困るんだけど」
女性に重いは禁句だろうがこれで妹の癖を直せるなら儲けものだ。ビンタの一つくらいは覚悟して悠月は禁断のワードを口にした。
「なに言ってんのいやらしい。妹に欲情する兄なんて聞いたことないんですけど」
「玲愛が聞いたことなくても、そう可笑しいことじゃないみたいだよ。兄妹での恋愛」
「しょーもな。くだらないこと言ってないでシャキっと起きる。お父さんに起こされるよりはマシでしょう。ほら、早く行きなさい」
指の腹で悠月の頬をツンツンする玲愛。最後に指先でバシっとデコピンをかますと、窓際に向かいカーテンを開け放った。
陽射しに目が眩む。こうなれば仕方がない、と悠月は腹をくくった。
「仕方がない。行って来る」
「くくく……しっかり扱かれてきなさいよね」
緩慢な動きで部屋を後にした悠月は二階の自室から一階のリビングへと向かう。
階段を降りると炒め物をしている音と鼻腔を擽る肉汁の匂いがした。
「おはよう、母さん」
リビングに入り、洗面所を目指すついでに悠月は母親に朝の挨拶をする。
「あら、おはよ~悠月!」
背中まで伸びた長い髪が扇状に広がる。気の抜けそうな緩い口調には愛嬌があり、二児の母だというのに老いを感じないその美貌と若々しさは日頃の手入れの成果を物語っている。
鷲宮杏華――悠月の母親はいつも通りの調子で朝食を用意していた。
「今日のご飯はなに?」
「ベーコンエッグにサラダが少々。それとご飯とお味噌汁。あ、いけない。二人には鮭の方が良かったかしら。つい仁さんに合わせちゃった」
「別になんでもいいよ。ご飯が食べられれば僕は文句ない」
「そう、良かったわ」
簡単な会話を済ませて悠月は洗面所に入った。
洗面台で顔を洗った後、脇に置いてあったコンタクトレンズを目につける。
「よし」
正面の鏡に映る自分の姿を見て、悠月は心の中で活を入れた。
その昔、鷲宮家の先祖は莫大な資金を投じて大きな武家屋敷を建てたという。
何故、そんなことをしたのかはよくわかっていない。武士の出だから武家屋敷を建てたかったのだろうと父、鷲宮仁は説明していた。
敷地内には日常生活を行う為の本宅と鍛錬を積む為の道場。離れに土蔵がある。推測するに四方を外壁で囲めるほどなのだからさぞ格式は高かったのだろう。今ではすっかり現代に馴染んでしまい、住まいも平屋だったものを二階建てに改築するなど、あまり昔の面影は残っていないが、それでも内部構造は当時のままである。
尤も、このだだっ広い敷地はある意味では悩みの種であり、敷地内を掃除する際にはやや煩わしい。家族四人で住むには些か手に余るのがこの鷲宮家の特徴であった。
「――遅かったな、悠月」
道場には剣道着姿の仁が居た。
正座をして目を閉じている様子から察するに瞑想でもしていたのであろう。整えられていない頭髪に無精ひげというスタイルは誰がどう見てもオヤジのソレだ。だが、剣道着を着込み整然と居座っている姿はなかなかどうしてサマになっていた。
「だって、いつもはこんな時間にやらないじゃないか。今日だっててっきり帰って来ないかと思ってつい……」
「アッハッハ! 違いねぇ。オレが帰ってこない方がゆっくりできて都合良かったか」
「そうは言わないけど」
「ま、せっかく起きたんだ。ちょっとは付き合えよ。こういうのも親孝行ってモンだぜ」
「なに言ってるの。まだ親孝行って歳でもないでしょう」
「いいから。ほれっ!」
ぶぉんと風を切る音がした。仁が何かを投げて寄越したのだ。
こんな道場で音が出るほどの質量を持つモノがあるとすれば相場は決まっている。悠月は無意識にソレを掴んだ。
「これは」
しかし、悠月の予想は裏切られた。
ここは剣道場だ。渡されるのは竹刀、或いは木刀だと考えていたのだ。しかし、いま悠月が手にしているのは紛うことなき真剣。本物の刀であった。
「父さん、どういうつもり。まさかこれでやろうって?」
「久しぶりの朝稽古だからな。脅かしてやろうと思ってさ。どうだ、ビビッたろ。マジモンだぜ、ソレ。抜いてもいいぞ、特別に許可してやるよ」
悪びれる様子もなく仁は肩を竦めてみせた。
「ジョークにしてはきついよ。おかげで目が覚めた」
「お、いいね。やる気だぁ。上がって来いよ」
悠月は道場の中ほどまで歩いていくと仁に正対した。
その手には竹刀が握られている。刀は道場の隅に置いてきた。
「なぁ、一応聞くけどやっぱ真剣勝負ってワケにはいかねぇか?」
「駄目に決まってるでしょ。アレは儀式の時にだけって約束でしょ。怪我したらどうするの」
「怪我しないようにやるんだよ」
「却下。居合いとかの稽古ならまだしも人に刃物は向けたくない」
話を切り上げるように悠月は竹刀を構えた。
朝稽古とはいえ時間は限られている。やるならば早くしろという合図である。
「お優しいことで。オレと違って随分優しい男に育ったもんだ」
仁も観念して竹刀を構えた。
遥か昔。鷲宮家はこの道場を利用して独自に剣術の新たな流派を生み出した。一子相伝ではないが可能な限り内密に。世間には決して公表しないことを前提とした秘密の剣技を先祖代々家訓として受け継いでいるのである。
仁はそんな鷲宮流の現師範に当たる。弟子は血を別けた兄妹のみ。
無論、悠月が勝てる道理はない。試合の結果はやらずとも見えていた。
「手ぇ抜くなよ、悠月。お前にはオレを超えてもらわねぇといけねぇからな!」
「出来ることならやってるよ!」
「あーあー痛そー。悠月、まーた負けたんだ。弱っちぃねぇー」
「うるさいなぁ。これでもやるだけのことはやってます」
朝稽古の後。家族は揃って朝食を食べていた。
玲愛が悠月を弄る光景もいつものと変わらない日常であった。
「アッハハハ、そんなにお兄ちゃんを苛めてやるなよ、玲愛。一応フォローしとくとこれでもだいぶ強くはなってんだぜ、こいつも」
「ふーん。でも負けは負けでしょう。アタシ、悠月が勝ったとこ一度も見たことないよ」
「はいはい、玲愛は良いよね。この前の弓道大会でも優勝でしょ。この分なら学科試験なんて受けなくても特待生で昇級だ。おめでと」
「生憎とアタシは悠月と違って目がいいからね。いやぁーなんでも見えるって辛いなぁ」
どことなく険悪な仲になっていく二人。
それを見かねて杏華が声を上げた。
「はいはいはい。二人とも喧嘩はそこまで。仁さんもナチュラルに悠月を責めないの」
「えぇ!? 杏華さん、別にオレ怒ってなんかないよ。フォローだって言ったじゃん!」
あたふたと仁が狼狽える。妻である杏華の前では仁は立つ瀬がないのだ。
「わかってますよ、仁さん。とりあえず、はい、あ~ん」
仁の前に差し出されたのはイチゴジャムをたっぷり塗ったトーストだ。
ご丁寧にも杏華はそれを手に取って仁の口元へと運ぶ。
仁も嫌がることなく大口を開いてパンを咥え込んだ。
「えっ、いいの!? やったぁ! あ~ん!」
この時、子供たちは心の中で思っただろう。『このバカップルめ』と。
仲睦まじいことは良いことだがここまでされてしまうと気恥ずかしさの方が勝る。
子供たちは揃って視線を逸らしていた。
「ふぁ、ふぉうふぁ。ふぉふぉふぃふぇふぁふぁ~!」
「食べ終わってからでいいから!」
不意にパンを咥えたまま喋り出した父親を玲愛と悠月が同時に制止する。
この父親、見た目は大人であるはずなのに随所で見られる所作がまるで子供なのだ。凡そ父親の威厳が感じられないのである。
「うふふ、二人ともタイミングバッチリね~♪」
一方の杏華は暢気に笑うだけ。子供にも甘ければ夫にも甘い。
そうなると必然、子供たち二人がしっかりしなければならないから不思議である。
仁はバクバクと食パンを平らげて再び悠月たちに話しかけた。
「あのさ、天音ちゃんたちとは相変わらず仲良くやってんのか」
「あぁ、友達のこと?」
玲愛が仁の意図を汲み取って答える。
「そうそう。最近俺、出張が多かったろ。なんだかんだ三ヶ月か。仲悪くなってねーかなぁーとか心配するわけよ。親としては」
「う~ん、別に普通じゃない。特別仲が悪いとかはないかな。ね、悠月」
「だね。相変わらずってとこ。最近はナオトも大人しいし随分平和だよ」
「あぁ~ナオト君なぁ。小せぇ時から悪ガキだからなぁアイツ。短気だし。まぁお前が大丈夫っつーなら大丈夫か。安心した」
「悠月、そろそろ」
「もうそんな時間か。わかった。母さんご馳走様」
「はい、お粗末様でしたぁ~」
「ありゃ、なんだもう行っちまうのかよ」
リビングの時計の針は午前七時を刻んでいる。
「最近は物騒ですから。貴方が犯人を掴まえるまでは早めに登校してもらってるんです」
「うへぇ~……夜勤明けにその言葉は利くなぁ杏華さん。こっちも頑張ってんのよぉ」
「子供たちが安心して登校できるように警察の方は頑張ってください」
「は~い、頑張りまぁ~す……」
「まぁ、父さんが心配するようなことはないよ。天音もナオトも元気にしてるし仲良くやってる。気になるなら直接本人に聞けばいいと思うよ」
タイミングよく、玄関先で呼び鈴が鳴った。どうやら迎えが来たようだ。
先行していた玲愛が家の玄関を開けると学友たちが姿を見せた。
「おっはよー、二人とも。学校行こう~!」
「ふわぁーあ……ウーッス、おはようさん」
玄関前には二人の学生が居た。
けだるそうに欠伸をしている長身の男が狼神ナオト。
そして朝からハキハキと喋る快活な女の子が雨宮天音である。
いずれも悠月と同じ高校、月見ノ原大学附属高等学校に通う生徒であった。
「いつもごめんなさいね。わざわざ家まで来てもらっちゃって」
「いえいえ。謝らないでくださいよ、お母さん。隣近所ですから苦労なんてないですよ。もう慣れっこです!」
「オレは反対方向だから無駄に時間かかってんだけどな」
ボソッと口にしたのはナオトだ。
瞬間、天音の表情がムスっと強張った。
「もう、ナオト! あんた余計なこと言わない。そもそも無理矢理来させないとあんた学校サボるでしょうが!」
「うるせぇなぁ朝っぱらから。このやり取り何回目だよ。もう悠月の母さんも飽きてるぜ」
「あんたがつまらないこと言うからでしょう!」
まさにこれから言い争いでも始めるかというところ。
ふと、ナオトが珍しい人物がいるではないかと目を光らせた。
「って、あれ。よく見たらオッサンがいるじゃねーか。珍しい!」
「おう! 相変わらずだな、ナオト君。ちゃんとイイコにしてるか」
「ケッ、うるせぇよ。なんかやつれてるけど少し見ない間に老けたか? オッサン」
「ほっとけって。夜勤明けで寝れてねぇだけだって。下手なこと言うとオマエんとこの親父さんに言っちまうぞぉ?」
「ゲ……それは勘弁」
仁はナオトの無礼を豪快に冗談で返す。
天音も自分の言いたいことを仁が代弁したお陰で胸を撫で下ろしたらしい。
「父さん、もういいかな」
今まで黙っていた悠月が口を開く。
「これでわかったでしょ、僕たちはいつも通りだって。家に帰ってきてまで気を張らなくてもいいんじゃない。刑事って仕事柄、無理かもしれないけど」
「ハッハ、悪かったよ、心配性の親父でさ。もう気にしねぇから好きにやってくれ」
失敗したとばかりに仁は頭を掻く。
ここ三ヶ月の間にニュースで話題になっている連続怪死事件が仁としては気がかりだったのだろう。
地元で起きている事件となっては尚更だ。親としては心配するのが当然の判断であった。
「おう、任せとけよ。オッサン」
「なにかあったらこいつを身代わりにするので大丈夫です!」
「んだとぅ!?」
「そういうことだから今日くらいは母さんと大人しくしててよね」
玲愛は玄関に立てかけてあった大きな弓袋を肩にかけながら言う。
「十分に気をつけてね、みんな。行ってらっしゃい」
杏華の見送りの言葉を聞くと悠月たちは学校へ向かった。
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