第3話 胎動Ⅰ

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第3話 胎動Ⅰ

 虚空の中に意識はあった。  視界を覆うのは一面の暗雲。随所にはノイズが走っている。  これは夢だ、紛うことなく夢の只中に悠月はいる。そう認識した瞬間、数々の出来事が脳裏を矢継ぎ早に過ぎ去っていく。学び舎を共にする学友たち、大切な家族、全ての者たちの掛け替えのない笑顔。壁一面に咲いていた大輪の血の華、死体、夕日を背景に降り立つ魔女、刹那の攻防と降りぬいた刃。  これは記憶の定着だ。この映像に何一つ齟齬はなく、実体険に基づいた回想が流れている。 身体は平気でも精神があの状況に興奮しているのだろう。別段、思い出したいほどの内容でもないが、あれほどの鮮烈な光景を目の当たりにすればフラッシュバックするのも無理はないことだ。故に、感慨に浸ることはなく、只、有りのままの事実を受け入れ嚥下する他ない。  そう、これは体験した〝現実〟なのだ。ただ一つ、自分も知りえない錆色の鮮血が自らの頬を濡らしていたことすらも。 「――ッ!?」  既知外の衝撃によって悠月は眠りの中から目醒めた。  先の映像は一体何か。時に人はありもしない空想を現実として認識してしまうことがあるという。俗に言う幻覚、妄想の類。何でもいいがともかく悠月にはこの記憶に関する認識だけが欠如していた。 「なんだ今の夢は。現実? いや、それは有り得ない。だって僕はあんな経験一度も」  疑問は混乱となって悠月の思考を鈍らせる。  一体、自分の身になにが起きたというのか。〝鮮血を浴びた経験〟など一度もないはずだが頭の奥底ではこの事実を受け入れろと身体が疼いていた。  否、きっとこれは何かの間違いだ。あの日見た惨劇があまりにも異様過ぎて、勝手に妄想を作り上げたに違いない。いや、そうでなくては困る。  仁が忘れてしまえと促したのは、きっと自己保身のためでもあったのだろう。 「お~い、悠月。起きてる~? 朝だぞ~!」  妹の声が聞こえた。音に気がついた時には、玲愛はもう部屋に足を踏み入れていた。 「うわ、珍しく起きてる。ごめん、てっきりアタシ寝てるもんだと思ってた」 「玲愛。人の部屋に入る時くらいノックしてよ。何かあったら困るでしょお互いに」 「……別に。するなら夜にしときなね」  バタンと勢いよく扉が閉まった。  お互い思春期真っ只中ではあるので、彼女の意図くらいは悠月にも理解できた。 「っ!! バカ、そういう意味じゃない! おい、玲愛。ちょっと待って!!」 『次のニュースです。先日の未明、月見ノ原市で遺体となって発見された富士真さんですが司法解剖の結果、富士さんは腹部を刃物のようなもので数箇所刺されており、死因は腹部からの失血死であることがわかりました。警察は富士さんの荷物などに荒らされた形跡がないことから、容疑を強盗殺人から連続殺人事件に切り替えて捜査を続けています』 「嫌な事件ねぇ、連続殺人なんて。何が楽しくてそんなことをするのかしら。玲愛も悠月も十分に気をつけるのよ。特に悠月。どうしても外に出るのが嫌なら遠慮なく学校を休んでいいんだからね」 「大丈夫だよ、母さん。なんの為に父さんに鍛えてもらったと思ってるの」 「駄目よ、悠月。模擬戦と実戦は違うの。どれだけ強い人でも命を落とす可能性があるのが現実よ。絶対に変な気は起こさないで。犯人を捕まえるのは仁さんの仕事よ」 「母さんも父さんと同じことを言うんだね」 「……悠月」  食卓に朝から重たい雰囲気が立ち込める。  予想はできていたことだが、こうなっては誰もが口を閉じて食事を摂るしかなかった。  暫くしてご飯茶碗を空にした悠月は逃げるように席を立った。 「ご馳走様。そろそろ天音たちが来るだろうから、もう行くよ」 「行ってらっしゃい。遅くならないように帰って来るのよ。喫茶店に寄るのもいいけど、無駄遣いはしないように!」 「はーい」  二人の笑顔がいつにも増して眩しいのは杏華にとっては幸いだった。  最近、この街では不吉なことが起こりすぎている。  親身になって考えればここは束縛してでも息子たちの安全を確保することが最優先だ。  特に悠月は先日の一件が尾を引いているように見える。  元来の優しさに加えて、なまじ実力があるせいで災いの手が伸びないか心配なのだ。  遠退いていく若者たちの背を見送りながら、杏華は切に願った。  どうかこの子供たちの行く末が幸福であらんことを、と。 「はぁ……しっかし、みんな浮かれてるよな。通り魔はまだ捕まってねぇってのに暢気にイベントの準備なんかしちまってさ。大丈夫か、ハロウィンの日なんて一番危ねぇだろ」  街は十月三十一日に向けてすっかりお祭りムードとなっていた。  日常の裏に凶悪な殺人犯がいると解っているのにこの活気である。まさか自分が被害に遭うとは微塵も思っていないのだろう。全くおめでたいことである。 「でも大勢人でいれば逆に安心じゃない? もし何かあってもすぐに誰か気づくだろうし。みんなで囲んじゃえば犯人も逃げられないでしょう」 「ばーか、オメェそんな簡単にいくわけねぇーだろ。警察がこんだけ動いてまだ捕まってねーんだ、どこに隠れてるか知らねーけどこりゃ異常だぜ。お相手も相当気ぃ使ってる。そんな奴が果たして囲い込んだだけでどうにかなるかねぇ」 「先輩に同感です。大勢で居れば大丈夫っていうのは一昔前の常識です。こちらも油断せずにいつでも助けを呼べる状態にしておかないと――」 「だったらだったら! これなんかどうですか。ジャジャーン、月丸ブザー! 見た目も可愛くて音も大きい。頭の兜を外せば音が鳴って、使わないときはストラップとしても使えて超絶キュートです!」  一緒に登校していた林檎が悠月たちの前に出てくる。  彼女が掲げているのは月見ノ原のイメージキャラクター『月丸君くん』だ。  頭に半月を飾った武者兜。ボディーは兎で片手には剣を構えている。  発展していく月見ノ原に残る古き良き西都の町並みをどうにか残していこうと市が数年前に公募した街の象徴であった。 「へぇ~可愛いね。大きさも手頃だしこれならいいかも。防犯ブザーだってバレなそう」 「えへへ、でしょう!? よかったらパイセンにあげますよ」 「え、いいの?」 「ウィ! こんなこともあろうかと人数分取ってきました!」  ジャラっと同じタイプの月丸くんをポケットから取り出す林檎。  それを押し付けがましい近所のおばちゃんよろしく無理矢理悠月たちの手に握らせた。 「また駅前のゲームセンター? 林檎ちゃんは相変わらずこういうの上手だね」 「いやぁ~それほどでもぉ~。一家に一つ、是非月丸くんをよろしくです」  林檎の月丸くん愛を聞いていると、あっという間に学校への正門へと辿り着いた。 「じゃあパイセン方、ワタシたちはこれで。また放課後に喫茶ノワールで会いましょう」  別れ際、ふと思い出したように林檎が振り向いた。 「あ、ツッキーパイセンは是非試食をお願いします。この前の、丸々残してあるんで!!」  最後に見せた彼女の飛びっきりのスマイルは、悠月にとっては悪魔の微笑みのように映っただろう。  それから後は、あまりにも他愛ない現実が悠月たちを待っていた。  朝のホームルーム。気を抜けば居眠りをしてしまうであろう座学授業。すっかり冬空へと変わってしまった体感温度一桁以下での野外授業。  思い返せばそれが、悠月にとっては幸福な最後の一日であったのかもしれない。
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