物語の始まり 

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物語の始まり 

 「シンデレラ」に「白雪姫」。  そして「眠りの森の美女」。  ―――ヒロインになれる女達は、皆若く美しい者ばかり。  ……知ってるわ。  三十も過ぎた『私』など、到底プリンセスにはなれない事を。 ◇◆◇ 「可愛らしく、美しいお嬢さん。とても美味しい林檎を差し上げよう。さあ、どうぞ食べておくれ」  口を開くのが重たく感じるのは、今のこの肉体が本来の身体とは違うものだからだろうか。  動かすのすら億劫な、皺だらけの手で毒々しいほど真っ赤な林檎を彼女の眼前に掲げる。私が手にしたコレは、今この世界で最もおぞましく、不快なモノだ。  『他者の命を絶つために、創られたモノ』  私という存在も、この忌々しい毒林檎と大して変わらないのだろう。 「でも……」  黒いフードの隙間から見えるのは、困り果てる『彼女』の姿。  小さな窓から顔を覗かせているのは、息を呑むほどの美貌を携えた一人の少女だった。  十代の若さ特有、いやそれ以前に彼女だけが持つとされる瑞々しく滑らかな白い肌は、輝かんばかりに見る者の目を惹きつける。  ほんのりと朱を刺した頬に、零れ落ちそうな潤んだ瞳。『彼女』の名を、知らぬ者はいないだろう。 「ごめんなさいお婆さん。小人さんに、誰も家に入れてはいけないと言われているの」  少女は、美しい顔に困惑の表情を浮かべ、申し訳なさそうに私に話す。  老婆からの好意を断るのが心苦しいのだろう、彼女の言葉は丁寧でそして心底申し訳なさそうな空気を含んでいた。私の事を、『親切な老婆』だと信じているからこその少女の声音に、心がズキリと悲鳴を上げる。  ……いい子なのに。  意地悪く見えるように笑った顔をそのままに、私は内心反対の事を呟いた。  少女の名は『白雪姫』。  この『物語』の主人公である。  そして、私の名は――― ◇◆◇ 「また泣いてるのか? お妃様」  椅子に腰掛け項垂れている私に、壁に掛けられた『鏡』がそう声をかけてくる。  『鏡の部屋』と使用人達に言われているここは、お妃である私以外誰も立ち入ることは出来ない場所だ。この部屋に入り、そして静かな空間で言葉を発することができるのは、私ともう『一人』――――鏡だけ。  私は俯いていた顔を上げ、その頬を拭うこと無く鏡に向かって呟いた。 「また私……殺してしまったの……」  口にした言葉が、虚空へと溶けて消える。まるでその言葉が、初めから無かったかの様に。  いや―――事実そうなのだ。  今この時間、この瞬間は、絵本の中では『無かった事』になっている。  城の外では、白雪姫と彼女を助けた隣国の王子の結婚パレードが盛大に催されており、この鏡の部屋にまで軽やかな音楽が届いている。しかしそれでも、私の心境が晴れる事は無かった。聴き飽きた音楽だからではなく、心がそれを拒むのだ。  数え切れないほど、何度も何度も絵本の物語は繰り返される。  白雪姫のシーン、王子様のシーン。  その間、そこに存在しない登場人物達がどこでどうしているのか。そんな事を気にする人間は、誰一人としていないだろう。  私達は存在している。  『絵本』という世界の中で。  私達は生きているのだ。  『絵本』という世界の中で。  絵本の中でしか生きられない私達は、確かに絵本の中にずっと存在していて、自分の登場シーン以外では、普通にこうして生活を送っているのだ。絵本の時間の経過と共に。  そして、自分のシーンが巡ってくると、現実世界の人間達と同じく支度をして、役者のように自分の物語の人生を生きていく。 「仕方が無いさ。君は『お妃様』なんだから……」  気の毒そうに、悲しそうに鏡がそう告げる。彼かも彼女かもわからない鏡は、私にとってはこの世界で唯一無二の親友だった。 『白雪姫の継母、意地悪なお妃様。鏡の女王』  白雪姫という絵本の中で、私につけられる二つ名は、そう大して違いのあるものではない。  それら全てが、主人公のように善のイメージを持てるものではないからだ。悪い女、心の醜い女、冷たい女、非道な女……。絵本の作者によってつけられたイメージは、物語以外の場所でも私を孤立させていた。  白雪姫は善、お妃様は悪。  その確固たる印象があるせいか、物語の外で私と口を聞いてくれる者は誰も居なかった。  たった一人、鏡を覗いて。 「ねえ鏡、どうして私は、『お妃様』なのかしら。どうして貴方は、『鏡』なのかしら」  意味の無い問いだと、わかっていた。変えられない運命だと、知っていた。けれど僅かな慰めが欲しくて、それを口にするけれど、希望のある声を掛けてくれるものは誰も居なかった。  隣に居る『鏡』でさえも。 「絵本の意思だから……」  いつもいつも、返してくれるのはこの言葉。『絵本の意思』で私達は鏡やお妃様に産まれた。  何か悪事を働いたかと問われても、この世界に存在した時には既に私達はこうだったのだ。産み出される前に悪事を働くことなど、出来るはずも無い。  なのにどうしてなのか。どうして私達は、悪役という配役に産まれ、この人生を生き続けなければならないのか。 「もう嫌なの。私は何度あの子を殺せばいいの?何度毒林檎をあの子に食べさせ、そして倒れる音を耳にすればいいの?」  言葉巧みに少女を騙し、毒を塗った林檎を食べさせ、彼女が息絶えるのを見届ける。  ……私の意志ではないのに。  私の名は、鏡の女王。  そして、意地悪なお妃様。  絵本ならば必ずと言っていいほど存在する、悪役にしてやられ役。  鏡の部屋で流された私の涙は、これまでと同じく乾いた城の石畳へと―――落ちて消えた。
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