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屁は友達
喜一さんは毎朝早くに起きて、トイレや洗顔、着替えをすませるとまず台所でお湯をわかす。
急須で緑茶を湯飲みに二杯入れ、一杯は亡き妻・初恵さんのお仏壇に供える。
もう一杯の緑茶をすすりながら喜一さんは眼鏡をかけて新聞を読む。
「最近はなんや物騒な事件が多いなあ」
喜一さんがそう言うと、プッと朝一番の屁が答えた。
喜一さんはすっかり年をとってしまった。
近所に住んでいた幼なじみのうち、達ちゃんは数年前に亡くなり、勲男ちゃんは息子家族と同居のため名古屋に引っ越した。陽平はボケが来て隣県の老人施設に入所した。
妻の初恵さんも死んでしまった。
初恵さんは喜一さんより六歳も下だから、当然喜一さんの方が先に死ぬものと思っていた。
お互い長生きして、老後は俺のオムツを替えてくれよ、なんて冗談を言っていたものだった。
でも初恵さんは七十歳の時にガンが見つかり、ほんの数年で死んでしまった。
気がつけば、喜一さんはひとりぼっちになっていた。
屁は喜一さんの友達である。
喜一さんが屁と友達になったのは、初恵さんの三回忌が済んですぐの頃だ。
近くのお寺に親戚が集まってこぢんまりと法要を行った。
ちょうど連休だったので、土曜から月曜まで、千葉に住む息子一家が喜一さんの家に泊まりに来た。いつもは一人暮らしの喜一さんの家で、久しぶりに大人数で食事をして会話をして、楽しい数日間だった。
月曜の午後に息子夫婦と孫たちが帰ると、家の中はまたがらんと静かになって、喜一さんは少し寂しくなった。
話し相手がいるというのはええもんやな。
喜一さんはそう思ったが、かと言っていまさら新しく友達を作るというのも面倒だ。
喜一さんは老人センターや町内会のレクリエーションなんかは好きではない。
ああいうところは爺さんと婆さんしかおらんしな。話が合わん。
などと思っている喜一さんであった。
「ああ、友達が欲しいなあ」
ある日、こたつでかりんとうを食べながらお茶を飲んでいた喜一さんがひとり言を言うと、プ~と屁が出た。
気の抜けた音が、ちょうど返事をしているように聞こえて、喜一さんはクスッと笑った。
「あんた、返事してくれるんか」
屁はまたピッと短く答えた。
「こらええわ」
そうだ、この屁を友達にしたらどうだろう。
そう思いつくと喜一さんは嬉しくなった。
「どうや、俺と友達にならんか」
喜一さんが声をかけると屁も嬉しそうにシュッと頷いた。
その日から、喜一さんと屁は仲良く暮らした。
屁は無口で温厚な性格らしく、大抵はおっとりと黙っていたが、喜一さんが話しかけるとスースー返事をしたり、時には急にブーッと大きな声を出して喜一さんを驚かせたりもした。
ある時は、喜一さんがテレビを見ているとクイズ番組が始まった。
スーツ姿の司会者が「それではここでことわざクイズです!」と叫んだ。
「急いでいるときは、下手に近道しようとするとかえって遠回りになり、遠回りの方が近いと言うことわざです。A 急がば走れ、B 急がば回れ、C 急がば遠くへ! さあ、正解はどれでしょう?」
「簡単じゃあ」
喜一さんが言うと屁もビィィと答えた。
「そや、Bや。あんた正解や」
喜一さんは笑った。屁も興奮したのかBBBBと何度も叫んだ。
「どんだけ出るねん。あっはっはっは」
喜一さんは久しぶりに心から大笑いした。
そうして、喜一さんと屁の暮らしも一年が過ぎようとしていた。
その間は、いつも二人で一緒に散歩をしたり昼下がりのテレビを見たりと、穏やかな時間だった。
ある日、喜一さんがいつものようにかりんとうを食べ食べ新聞を読んでいると、屁は急に改まった顔をしてシュッと言った。
「どうしたんや、急に真面目な顔しよって」
喜一さんが言うと屁はシュシュと小さく頷くと喋り出した。
「この一年、仲良くしていただいて本当にありがとうございました」
「ああっ、あんた、喋れるんか」
喜一さんが驚いていると、はい、とハキハキした口調で屁は続けた。
「わたくしのような、屁のような者と友達になって色々と情をかけていただき、ありがとうございました。嬉しさのあまりずっととどまってしまいましたが、わたくしもそういつまでもあなたの周りに漂っているわけにはいきません」
「はあ」
「残念ながら、屁ですのでいつかは拡散して消えていく運命なのです」
「へえ」
「最後にご恩返しがしたいと思い、こうしてお話しさせていただきました」
「ほう」
喜一さんは驚きのあまりしばらく言葉を失っていたが、なんとか落ち着きを取り戻した。
「ご、ご恩返しっちゅうても、何をしてくれるつもりや」
「喜一さんの望みを叶えて差し上げたいと思っています。欲しいものなどありましたら、何なりとお申し付けください」
屁にそう言われて喜一さんは考えた。
もう老い先短い身である。金や女はいらぬ。初恵さんも友達も、親しい人はみんないなくなってしまったのだから、いまさら寿命を伸ばしてもらいたいとも思わない。
「別に欲しいもんなんてないわ。まあ、強いて言えばピンピンコロリで楽に死にたいっちゅうぐらいやな」
「そうですか」
「楽に死んで、あの世で初恵に会うて、あと友達とか親とか、先に死んだ人らに会えたら楽しいやろな」
「そうですね」
屁はそれきり黙ってしまった。
そのまま十日ほどが過ぎた。
その間、喜一さんがたびたび話しかけても、屁は返事をしなかった。
ウンともスンとも、プスンとも言わなかった。
もしかして、あの屁はもう消えてしまったんかいな。
喜一さんがそう思っていたある日、急に屁が小さな声で話しかけてきた。
「お、おはようございます。し、しばらくご無沙汰しており、申し訳ありません」
「あんた、無事やったんか。そらよかった。けど、なんや元気ないのとちがうか」
喜一さんが心配するのを制して屁は苦しげに続けた。
「ご、ご心配いただき、重ね重ねありがとうございます。やっとあなたさまの願いを叶えて差し上げるご用意ができたのです」
「お、俺の願いて」
「この十日間、溜めに溜めた屁でございます。ささ、窓をお開けになって一気に放たれるがよろしいでしょう」
屁はそう言うとスンッと黙り込んで気を溜め始めた。
喜一さんの中で何かが大きく膨らみ、うごめき始めた。
喜一さんは半信半疑ながらも言われた通りに窓を開け、窓枠に手をつくと尻を後ろに突き出した。
そして、そのまま思い切り屁をこいた。
ブーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ。
長い長い、大きな屁が出た。
と思ったら喜一さんはその屁の勢いで窓の外へと勢いよく飛び出した。
「ひゃあ」
尻から途切れることのない屁を吹き出しながら、喜一さんは晴れた空へ飛び立った。
ぐんぐん飛んで、喜一さんと屁は高く高く上がって行った。
太陽の眩しさに思わず喜一さんが目を閉じ、次に開けた時は辺り一面きらきらと輝く白い雲の中であった。
「あれえ」
喜一さんは驚いて周りを見回した。
きらきらした雲がやがてスーッと晴れて、いつの間にか喜一さんは色とりどりのお花畑の中に立っていた。足元には澄んだ小川が流れている。
「わたくしはこれでお別れでございます。喜一さん、末長くお幸せにお過ごしください」
そう言って屁は喜一さんから離れると、あっという間に空中に広がり消えていった。
「ああ……」
喜一さんが突然のことに戸惑っているうちに、屁は完全にその気配もにおいも消えてしまった。
「お礼も言えんかったな……」
喜一さんが振り返ると、いつの間にか小川の向こうには懐かしい人達がたくさん現れていた。
幼なじみの達ちゃんがいる。とうの昔に亡くなった喜一さんのお父ちゃんとお母ちゃんもいる。そのほか、今までに亡くなった喜一さんの親しい人達がみんないて、体の周りをきらきら光らせながらこっちを向いて笑っている。
真ん中には初恵さんがいる。
がんになる前のふっくらした顔で、薄い桃色のカーディガンを着ている。手には半透明の蓋のついた有田焼の小鉢を持っている。あれは初恵さんのお気に入りの小鉢で、中にはいつも里芋の煮物とか、いかなごのくぎ煮とか、喜一さんの好きな美味しいものがこしらえて入れてあった。
初恵さんは両手で小鉢を持って、きらきらしながら喜一さんの方を見てにこにこしている。
達ちゃんが何か言って、初恵さんは嬉しそうに口に片手を当てて笑った。
初恵さんがこっちに向かって手招きしている。
それに合わせてお父ちゃんやお母ちゃんも、その他の人たちも手拍子をしている。達ちゃんがステップを踏んで踊り始めた。
みんなもにこにこ笑って踊り始めた。
喜一さんはふらふらとそちらの方へ歩き出した。だんだん嬉しさがこみ上げて、どんどん足が早まった。
お花を踏み、浅い小川に足を踏み入れ、ズボンが濡れるのも気にせず喜一さんは走り出した。
屁よ、屁よ、ありがとう。
喜一さんが川の向こうに渡ると、踊りの輪から初恵さんが出てきて小鉢を差し出した。
喜一さんは煮物をつまんで口に入れると、にっこり笑ってきらきらと光り出した。そして初恵さんと手を繋ぎ、みんなの輪に入っていった。
お花畑の中、死んだ人たちの楽しい踊りは、いつまでもいつまでも続いた。
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