青い天使

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 Jリーグが半ばを過ぎた9月である。押さえつけるような日差しの下で、チームは明日の試合に向けて、コーナーキックの練習を繰り返していた。  そんな練習場は静かなもので、ボールを蹴る音が外まで届いていた。レギュラー組は一球蹴る度にプレーを止めて、気になった点を話し合っている。俺を含めたサブ組はそれを待つことしか出来なかった・・・。  明日の相手は現時点で首位に立っていて、勝てば順位が入れ替わる大一番。その上、隣町に本拠地を置くダービーマッチで、サポーター同士が衝突するほどの負けられない戦い。  今日の練習はコンディション調整が目的で、セットプレーの練習は確認作業でしかなかった。俺たちサブ組は人形のマーカーコーンと変わらなかった。  そんな淡々と過ぎていく雰囲気の中で俺は、青い芝生が水しぶきのように、グラウンド上にめくれ上がるほど踏み込んだ。コーナーキックから蹴られたボールを頭で合わせようとする龍二さんに体をぶつけて阻止するためだった。  バチンっと鈍い音が空に響いた。肩から倒れ込んだ龍二さんが顔を歪めると、真っ赤な血が混じった唾を吐き捨てた。それを俺も龍二さんも見てから、お互いの視線が重なった。 「怪我したらどうするんだ。責任取れるのか」  胸ぐらを掴んで吠える龍二さんは、俺が見下ろすほど小さな選手で、怪我人が続出するチームの中で唯一の得点源だった。あごヒゲでカモフラージュしても甘いマスクは隠せていない。見た目は二十代前半ながら、実際は31歳のベテランだった。  高卒からプロになって13年のキャリアの中で、Jリーグの得点王を2度、リーグ戦、カップ戦、天皇杯、ACLで王者になり、海外リーグの経験、現役の日本代表という圧倒的経歴を持っていた。  ただ俺は、龍二さんの能力は認めても、日本代表のレベルにあるかは疑問だった。それは技術うんぬんではなくて、人としての資質が相応しいとは思えなかった。  せっかく非公開にした練習場で、龍二さんは大声で俺を罵った。外には明日の勝利を願うサポーターが、見送るために待機している。そんなこと関係なしの殿様選手、パスの質が自分の望むレベルでなければぶちギレて、出し手の状況なんて考慮しないでパスを要求する。  こういった選手は大抵、プライベートは良い人だったってオチが多いけど、龍二さんがチームメイトと外食に行ったなんて聞いたこともなかった。このチームで誰も龍二さんを止める人はいない。監督ですら指摘するようなことはないアンタッチャブルな存在だった。  ルーキーの俺なんかが刃向かうなんてあり得ない。チームの状況を理解していたし、もとより自分のプレーが輪を乱していることはわかっていた。  みんなの視線が早く謝れって言っている。時間が掛かるとわかっている選手は靴紐を結び直したり、動きの確認を始めた。謝ろう、、、そう思いながらも迷いがあった。ここで謝れば何も変わらないからだ。チーム内で公式戦に出場していないのは俺だけだった。  大学を卒業して1年目とはいえ、高卒の同期が出場している現状に焦らない訳にはいかなかった。プロになって約半年、序列8番手のセンターバックには、チームメイトの怪我を待っていてもチャンスは訪れない。  自ら手繰り寄せるためには、ここで引くわけにはいかない。そんな俺の見せ場は練習しかなくて、俺にとっては練習が負けられない戦いだったのだ。だけど・・・。 「すいませんでした」  頭を下げる選択をしたのは、やはり幼い頃に教わった井原コーチの指導の賜物と言えるだろう。チームのために個人を犠牲にするのは、人として当たり前なことだと教えられてきた。それがやがて、自分に還ってくるとも教えられてきた。じっと耐えて、いつか必ず訪れるチャンスを掴むために準備をするんだと教わった。  実際に俺はプロにはなれたわけで、これも正しい選択で、丸く納まるはずだった。  俺が顔を上げると、龍二さんは失望したように視線を外した。小さくため息をついて、あごヒゲに触れて何かを考えていた。再開する気がないのは明らかで、キッカーも腰に手をついて待っている。  みんなが龍二さんを見つめていた。けれど、沈黙を作り出し張本人の龍二さんはまったく気にしていない。何を言うでもなく俺だけを真っ直ぐに見つめてた。俺は、どうすりゃいいんだろうと、助けを求めてキャプテンの今泉さんへ視線を向けた。今泉さんとはしっかり目線が合っているのに、何も言ってはくれなかった。  ただ、じっと目を離さない。それが何かを俺に求めているように感じても、その意図がわからない。俺は先生から当てられるのを避ける子供のように視線をそらした。その視線の先に監督がいて、監督も今泉さんと同じ目を向けている。なんなんだよって叫びたい思いを押し殺すと、監督が練習再開を告げた。まるでしびれを切らせた物言いだった。 「俺のマークに付け」  龍二さんが再び俺を下から睨み付けて言った。俺は190cmあって、龍二さんは160cmしかない。完全なミスマッチで、試合ではあり得ないシチュエーションだった。  さっきの衝突は、俺が自分のマークを放置して、アピールするために持ち場を離れた結果だった。龍二さんの指示はチームにとって何の生産性ない。俺の利己的な行動にキレた龍二さん個人の感情でしかない。  現在チームは全タイトルを狙ったシーズンで、リーグ戦とACL以外は敗退していた。これ以上の敗北は監督の進退問題に関わってくる。なのに今泉さんと監督は何も言わなかった。  練習が再開された。俺は言われた通りに龍二さんをマークする。腕で抱き寄せらるほどの近距離に立ちながら、龍二さんの怒りを静める事だけに気を使って、触れることは避けていた。  コーナーキックに立つキッカーがボールをセットして、ゴール前を伺った。俺は蹴るタイミングを把握するために、瞳だけをキッカーへ向けた。その瞬間、龍二さんが俺の視界からバツンと消えた。首を回すと俺の背後へ走り込んでいた。とっさにバックステップで対応すると、見計らったように方向転換した龍二さんに前を走られ、どフリーのまま難なくヘディングでゴールを決められた。  俺は尻餅をついて見上げていた。 「練習になんねぇな」  唾を吐くように龍二さんは俺に言った。元々、あり得ないシチュエーションなんだから、練習にならないのは当然だ。ただの仕返しでしかない。胸の中で「殺してやる」って呟いた。  でも、実際は、 「すいませんでした」  俺は謝りながら、井原コーチと出会ってから、兄弟喧嘩になったって殴ることはなかった拳をぎゅっと握りしめた。龍二さんの視線に気づいて、俺はそっと解放した。龍二さんはそれを鼻で笑った。 「もう一本行くぞ」  監督が再開を告げると、キッカーがボールをセットした。俺は急いで立ち上がって、今度は見失う訳にはいかないと、腕を龍二さんの体に回して動きを封じた。  俺は足下の技術は大したことはないけれど、身体能力には外国人選手にだって負けたことはなかった。大学時代はユニバーシアード代表に選ばれて、世界大会で優勝したときにはMVPに選ばれた2m近いFWに力負けしなかった。  俺は肩くらいしかない龍二さんを腕で押さえ込んでしまえば簡単だと思って、密着する龍二さんを見下ろした。  キッカーが助走を取った。その瞬間、それまでまったく動かなかった龍二さんが体重を預けるように、俺にズシンとぶつかってきた。それは俺が足を踏み出そうとするタイミングで、電源を奪われたロボットのように俺の体はプツンと停止した。  龍二さんの体を囲っていた腕は払われて、またしてもどフリーで決められた。30cmの身長差の中で、文字通り手も足も出なかった。  負けた俺が見下ろして、勝った龍二さんは見上げている。あべこべな状況を理解できなかった。  たった半年のプロ生活の中で、足りない部分は予想通りで、強みの競り合いや一対一のディフェンスは十分に通用する手応えは感じていた。だからこそ、出場するチャンスを与えられないことが疑問だった。その答えをたった2回のプレーで突きつけられた。 「さすが元日本代表、、、」そう危うく心の声がでそうになったのを噛み殺した。それでも心臓が高鳴ってしまう。龍二さんはテレビで観てきた憧れの人だった。  5年前に日の丸を背負ってW杯本大会出場を決めたゴールは龍二さんのヘディングだった。W杯でグループリーグ突破を決めたゴールも龍二さんだった。勝負どころで必ずゴールを決めてきたFWの龍二さんとは、ポジションが違っても一番の憧れだった。  同じチームに決まって何よりも嬉しくて、親にはプロに決まったことよりも、龍二さんと同じチームだって先に報告して、両親を笑わせた。だけど、だからこそ認めたくなかった。  龍二さんは、俺の足下に唾を吐き捨てた。こんな横柄な人だったなんて信じたくなかった。  俺がチームに合流した初日、その日は合宿で、龍二さんは芝生のグラウンド上でストレッチをしていた。その周囲には見えないバリケードがあるように、誰も近寄らなかった。  昨シーズンからのチームメイトすら寄せ付けない龍二さんとは挨拶が限界だった。その頃はそんな孤高な姿すらかっこいいと思っていた。それが失望に変わったのは、開幕直前の開幕前の感謝祭での質問コーナーだった。  スタジアムに2万人集まったなかで、夢見る少年からの質問だった。どうやったらプロになれるかと問われ、龍二さんは自分でその答えを見つけられないのなら、あきらめた方がいいと答えて、会場を氷づかせた。  笑い話にもならない地獄の状況に、クラブがこのエピソードをメディアに話すことを選手に口止めしたほどだった。いくら龍二さんの答えが真実だとしても、現実を突き付ける場所じゃない。プロは夢を与えるべきだ。だけどその時もクラブは龍二さんに注意すらしなかった。 「結局、そうなんすよ」  チーム得点王で日本代表の肩書きが理由だって、同期の武彦は軽く言っていた。高卒の18歳でクラブチームでサッカー経験がないくせに、 「結果さえ出せば許されるのがプロの世界」  まるで長らく歩んできたかのように言っていた。人柄や人間性が必要だと言うのは、メディア向けの嘘なんだとも言っていた。それを否定する俺を、青臭いと言った。  ふたたび再開された。今度は先程よりも半歩距離をとってマークについた。身長差があるから、腕の長さは俺に分がある。こっちが触れられる距離でも、小さい龍二さんには遠い。良いタイミングで体を当てさせないことに気を配り、一定の距離を保ちながら、龍二さんとボール両方を視界に入れて備えた。 「お前ってさ、色んな人に助けてもらって生きてきただろ?」  唐突に言われ、気を散らさせる駆け引きなんだと相手にしなかった。 「眩しいくらい真っ直ぐだもんな」  キッカーがボールを蹴った。龍二さんは一つのフェイントも使わないで、ファーサイドへ回り込んだ。俺はと言えば、密集した仲間に進路を阻まれて、身動きできずに置いていかれた。  敵を利用したスクリーンプレーで出し抜かれた。たまたま龍二さんとボールが合わなくてゴールにはならなかったけど、完全な敗北だった。  これまで様々なタイプのFWと対峙してきたし、龍二さんのような一瞬の駆け引きに優れた選手だって対応してきた。龍二さんがやっていることは、特殊なことなんて何一つない。ただ洗練されているだけである。  何度繰り返したところで、今すぐ対応出来るレベルではなかった。  このまま続ければ俺の評価が下がる一方だとしても、ここで引き下がるのも許せない。というかもったいない。このレベルに対応出来なければ、レギュラーなんてあり得ないし、止められれば日本代表すら見えてくるとさえ思えた。  これは明らかにチャンスだった。だけど思いきれないでいた。これ以上チームの迷惑になるのは、心情として許せないからだった。 「すいませんでした」  俺は龍二さんに頭を下げずに謝った。僅かな反抗はしても、龍二さんの憂さ晴らしを終わらすことを優先した。つまり、チームのためだった。 「お前さ、自分のこと特別だと思ってる?」  龍二さんは俺の髪の毛を掴むと、目線まで引き下ろした。俺はガクッと腰をくの字に曲げて、 「思ってないです」 「お前くらいデカイ奴なんて、今の時代ゴロゴロいるからな」 「わかってますよ」 「だったらチーム背負ったような顔してんじゃねぇよ。殺すぞ」  龍二さんは髪から手を離すと、再びポジションに着いて振り返った。 「終わらせねぇからな」  引っ張られた脳天にまだジンジンと痛みを感じながら、なぜか井原コーチに肩を触れられたあの日を思い出していた。 「こんなもんか?」「かかってこいよ」「退屈なんだよテメェは」  龍二さんから次々に浴びせられた罵声は、一度解放した拳を握らせて、ぬるい闘争心をグツグツとたぎらせた。不快感はなかった。むしろ心地よさすら感じていた。意図的に切断していた感情の回路が一直線に繋がったような感覚だった。 「早くポジションに着け」  監督が再開を促して、キッカーがボールを蹴った。ライナー制の低くて速い弾道は、いち早くニアへ走り込んだ龍二さん一直線に向かっていった。  俺は完全に出遅れて、龍二さんのユニフォームをすがるように掴んでしまった。ぐるんとひっくり返るように仰向けに落ちた龍二さんは、頭を打った。  慌てたのはコートの外で見ていたメディカルスタッフで、起き上がった龍二さんへ駆け寄った。それに対して龍二さんは「寄るな」って怒鳴って追い払うとポジションに着いた。俺には何も言わず、監督に再開を求めた。  あぁやっぱりな、そうなんだって俺は納得した。龍二さんとは挨拶しかしたことがないけれど、この人は俺のことをわかっているのだろう。きっとチーム全体のこともわかってやっている。  龍二さんは新しい線を引きたかったのだ。いや、俺に引かせたいのだろう。負けられない試合が続き、それが毎週2試合。確認だけの練習が、チームに緩さをもたらしていた。  怪我人が続出し、連戦からの回復が最優先の中で、監督とキャプテンが口で激しさを求めていても、ピッチ上では反映されていなかった。  どこまで強く行っていいのか・・・その線引きは数字で表せないからだ。  俺も小さい頃からどのカテゴリーでもキャプテンを任されてきた。どんなに「頑張ろう」「やりきろう」と口でいっても体で表現出来ない時期がチームには必ず訪れる。何度も経験してきたはずなのに、1年目で気づく余裕がなかった。  チームとしては、しかたがないこと、とはいえどこかで引き締めなければならない。それは口で言っても変えられない。そもそも龍二さんに対して強く行ける選手がいない。だから俺の逸脱したプレーを利用したのだ。龍二さんはわざと挑発して、悪役を演じていた。     今なら、この人が30代を越えて今だに日本代表へ選ばれ続ける理由も納得出来る。前線のポジションでJリーグの選手で選ばれているのは龍二さんだけだった。しかも代表では試合にほとんど出ないにも関わらず、毎回選ばれ続けていた。ネットでも疑問視されていた答えはここにあった。  俺はチームのためだ何だと言いながら、ビビってただけだった。そもそもチームのことを考えるレベルになんて到底足りてなかった。  監督が再開を認めた。すると、キャプテンがふらっと近づいて、 「もっとやっていいぞ」と俺の耳元で煽るように呟いた。  今度は龍二さんがさらに密着してきた。俺のユニフォームを掴んで、引きずり回すように引っ張って離さない。俺が手で払っても離さない。明らかなファールでも監督は止めず、俺も手荒く対抗した。逆に掴み返して、もはやガキの喧嘩みたいに揉み合うと、さすがに笛が吹かれて、アシスタントコーチからファールだって注意された。 「止めなくていい」とキャプテンが言って、「続けるぞ」と龍二さんが催促して、「まだまだ足りない」と監督が焚き付ける。  キッカーがボールをセットすると、出走ゲートが開いたように、突然周りから声が出はじめた。報道陣を完全にシャットアウトした完全非公開の練習場には、選手同士が激しくぶつかり合う肉体の衝突音がこだまする。  ボールが蹴られた。インスイングのボールが弧を描いてキーパーへ向かっていく。俺は龍二さんより一歩前に踏み出して、背中で完全に押さえ込んだ。さらに腕を広げて進路を断ちながら、ボールに合わせて両足で踏み込んだ。すると先に飛んだ龍二さんが覆い被るように背中に乗ってきた。  それは龍二さんの反則、ポジション取りに優った俺の勝ちだけど、俺はボールに触れさせなくなかった。  俺はシーソーのように体を起こして、軽い龍二さんをロケットみたいに打ち上げた。 「危ない」  今泉さんの言葉にみんなは見上げた。龍二さんは猫のように空中で体を捻って見事に着地した。「おぉ」っと声が揃って、龍二さんが顔を上げると息を飲むように静まり返った。  今泉さんが危険を察して逆サイドから走り出す。俺と龍二さんとの距離からは遠すぎて明らかに間に合わなかった。  龍二さんは立ち上がって、ゆっくり俺の前へ歩いてきた。小さな拳を握ると、俺の胸をドスンと打った。 「もっと来いよ」  龍二さんを止めたい、負けたくない。煮えたぎったと思った闘争本能は青天井に上がっていく。この瞬間に俺のチームうんぬんの思考は抹消された。小さくて青くさい使者が俺を高みへ導いてくれる。                   おわり
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