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budou-03
「イツキ、起きて。朝よ!」
アリスティアは朝に強い。今日もまた、目覚まし時計よりも早く僕を起こしにくる。こうなってくると目覚まし時計の存在意義を疑ってしまうのだが、それもこのところの日課だ。
アリスティアと僕は、ステーションの居住区の隅にある共同住宅に住んでいた。そして、ふたりで朝食を取るという習慣は、僕が病院で目覚めてから――地球という惑星の自転と公転から割り出された公用時間によれば――三か月、すっかり馴染んだものとなっている。
「ここが貴方の部屋だから」
部屋の扉を開けながらこちらを振り返ったアリスティアが少しだけ寂しそうだったことを覚えている。リノリウムの床から居住区に足を踏み入れた僕は、それまで彼女と一緒に住んでいたということなど文字通り記憶になく、自分のものであるのであろうベッドも本棚も机も、他人のもののようにしか思えなかった。
そして、食堂の椅子が三脚揃っていることも、食器が三人分揃っていることの理由も、ひとつだけ誰のものであるのか分からない部屋の存在も、僕にとっては謎のままだ。
「ママレードでいい?」
トーストを手にしたアリスティアが僕に聞く。皿にサラダを取り分けながら、僕は頷く。今日は早く帰れそうだから、とか、夕方には帰って来れると思うけど午後は外出するから、とか、そんなことを喋っていると、来客を告げる呼び鈴が鳴った。
「誰かしら、こんな時間に」
玄関を見遣りながらアリスティアが立ち上がる。ほどなくして聞こえてきた物音に、アリスティアばかりではなくトーストを齧っていた僕も眉をひそめた。そして、玄関に続く廊下へとアリスティアが姿を消す。そして、すぐに押し問答が聞こえてきた。
「どうしてロックが解除されてるの? 私は立ち入りを許可した覚えはないわ」
「セキュリティ解除の許可は出ています」
「誰にそんな権限があるのかしら?」
「居住区の管理者ならびに官舎の所有者たるアカデミーです」
「待ちなさい!」
鋭い声に、足音が重なる。椅子に座ったまま動けないでいる僕の手を、玄関から駆け戻ったアリスティアが掴んだ。
よろけながら立ち上がる僕の視界に黒の軍服が現れる。それはステーションを防衛する軍のものだ。
軍人を前に後退する僕の手から、アリスティアの手が離れた。
「ナシバ・イツキ。アカデミーにおける貴方の所属長より、召喚命令です。拒否は抗命行為と見なされます」
何を言われているのか、理解できない。ステーションではアカデミーを母体とする研究機関も軍と同じ公的機関とされているから、この二者が協力することは理解できる。しかし、アリスティアがアカデミー所属の研究官であることは間違いないが、僕がアカデミーに所属していたという記憶はない。
後退を続ける僕の背が、窓を覆うブラインドに当たった。逃げ場を失って立ち尽くす僕の耳を、ブラインドが巻き上げられる賑やかな音が叩く。
「行きなさい!」
ブラインドの上がった窓を全開にしたアリスティアが、窓枠から僕を押し出す。僕の身体は窓から外へと仰向けに倒れこむように移動する。居住区の果ての、住居たる箱の断面。宙いっぱいに広がるきらめかない星空を目に映しながら、僕は聳え立つ箱の際を落下してゆく。
地上数十メートルいう認識すら曖眛になるような上下の距離を、疑似重力に囚われるまま、大気に溺れるように僕は落ちていった。
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