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これも何かのご縁です
コンビニエンスストアで、スマートフォンやICカードによる支払いも普通になってきた現代。
ほんの少し前まで日本では現金払いが基本だったことを、もう人々は忘れてしまったかもしれない。当時は、現金払いゆえの悲劇や喜劇も多かったのだが……。
例えば、若いOLの大城理香が遭遇したのも、そんな事件の一つだった。
その日。
会社帰りの彼女は、電車を降りたところで、駅前のコンビニに立ち寄った。
今日は仕事が忙しくて、本当に疲れた。これでは、とても自炊する気にならない……。そう自分に言い訳しながら、このコンビニで弁当を買うのが、最近では理香の日課となっていた。
金銭的なことを考えるのであれば、コンビニ弁当は割高だろう。せめてスーパーで惣菜を買った方が、少しは安上がりに違いない。
それでも。
「高い分、こっちの方が美味しいのよね。それだけ開発費もかかってるとみえて」
小さく独り言を口にしながら、弁当を物色する。
コンビニ弁当なんて、誰かが買って行ってしまえばなくなるので、棚に並んでいる品は、いつも同じというわけではなかった。今日はお気に入りのハンバーグ弁当が残っていたので、それを手に取り、レジへ向かう。
レジに立っていたのは、二十代半ばの男性。『河野』と書かれたネームプレートを、胸につけている。
毎日のように利用する理香にしてみれば、もう見慣れた顔だった。年齢的に大学生とは思えないから、大学院生あるいはフリーターなのだろう、と勝手に想像している。
それに。
世間一般の基準からすれば特別美形ではないかもしれないけれど、理香は彼のことを、好みのタイプだと感じていた。厳密にはルックスそのものを評価しているというよりも、大学時代に憧れていた先輩――田中さん――に雰囲気が似ているから、という理由なのだろう。なにしろ理香は、彼のことを心の中で『河野』ではなく『田中さんもどき』と呼んでいるくらいなのだから。
その『田中さんもどき』が、営業スマイルを浮かべて、彼女に告げる。
「お会計、504円になります」
彼の笑顔は素敵だと、いつも理香は感じてしまう。同時に、大学時代の先輩は、こんなふうにニッコリと笑いかけてくれることはなかった、と思い出す。
悲喜こもごもの想いで、彼女は財布を取り出して……。そこで顔が引きつった。
「お金がない……」
そうだ。
今日は昼休みに銀行へ下ろしに行くつもりだったのに、直前に課長から押し付けられた仕事があって、それどころではなく……。
すっかり忘れていた!
「……どうしましたか?」
理香の尋常ではない表情に、『田中さんもどき』が、心配そうな声をかけてくる。
「いえ、あの……。小銭しかなくて……」
顔を上げた理香は、申し訳なさそうな口調で返した。
お札は一枚も財布に入っていないが、一応、硬貨だけはある。ただ、レジで小銭をぶちまけて支払うというのも、それはそれで恥ずかしかったのだ。
とはいえ。
他に支払い手段がない以上、恥を忍んで、そうするしかない。理香は財布を逆さまにして、中身を全てさらけ出したのだが……。
「……499円。5円足りませんね」
小銭を数えてくれた『田中さんもどき』の、非情な声。
別に彼の声色そのものは冷たくも何でもなかったが、理香には、氷を浴びせられたように聞こえてしまったのだ。
「あの、ごめんなさい。私……」
今日のところは、キャンセルで。
そう言うつもりだったのに、最後まで言わせてもらえなかった。
「いいですよ、お客様。5円くらい、おまけしておきます」
「……え?」
驚いて、ぽかんと口が開いてしまう理香。
まるで、その口の中に投げ入れられるかのように、彼の言葉は続く。
「お客様は、毎日利用してくださる常連さんですからね。これも何かのご縁です」
そう言ってくれる彼の顔には、いつもの営業スマイルとは思えない、本当に優しそうな笑みが浮かんでいた。
無事に解決して、店を出たところで、理香は振り返る。
不思議に思ったのだ。
あの『田中さんもどき』は、ここの店長でもなければ、その家族でもないはず。ただのアルバイトが、勝手に「5円おまけ」なんてして大丈夫なのだろうか?
ガラス戸越しに店内の様子を見ると……。
レジの『田中さんもどき』が、ズボンのポケットに手を突っ込んでいた。そして取り出したのは、彼の私物と思われる財布。
「あっ!」
小さく叫んでしまう理香。
なんと彼は、自分の財布から小銭を出して、それをレジへ入れていたのだ。つまり、理香の足りない分を、彼が代わりに支払ってくれたのだ。
「ありがとう、河野くん……」
自然と理香の口から漏れたのは、彼に対する感謝の気持ち。
しかも『田中さんもどき』ではなく『河野くん』と呼びかけていた。今までネームプレートが視界に入ることはあっても意識することはなかった、彼の本当の名前で……。
同時に。
彼の言葉が頭の中に蘇る。
「『これも何かのご縁です』……。そうよね、こういうところから、人間の縁って生まれるのよね」
と、口にする理香。
明日からは、きちんと自炊もするようにしよう。料理のレパートリーも増やそう。そして今日のお礼として、いつか彼に手料理を食べてもらおう……。
生まれたばかりの淡い恋心を自覚しながら、いつもより軽い足取りで、彼女は家へと向かうのだった。
(「これも何かのご縁です」完)
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