おはよう

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おはよう

 僕はぬいぐるみを抱いて立っていた。大きなうさぎのぬいぐるみは、大人の僕がかかえるのにちょうどよかった。目の前には屍が山となり、強く鉄の匂いがしていた。周りは薄暗く、湿った空気が漂っていた。僕はただ、ぬいぐるみが汚れやしないかとそんなことばかり心配していた。案の定雨が降ってきて、僕もぬいぐるみもたちまちびしょぬれになってしまった。  これがずっと昔から、脳に刻まれた僕のイメージ。  おはようございます、と挨拶をすると、きちんと答えてくれる。一応。でも僕は知っている。彼らには期待する価値もないことを。  父親は一言口にしただけでさっさと居間から出ていった。残った母親がこちらをふりむき、微笑む。衰えてシワが増えた顔に、変にキラキラとした目。僕は視線をそらし、テーブルに座る。用意されたトーストは食べず、新たに自分で焼く。 「今日は部活あるの?」 「あるよ、だから遅くなる」  焼けたトーストを口につっこみながら答える。本当は部活なんて、半年も前にやめてしまった。先生に事情は話してあるから、嘘はばれない。きちんと作られた弁当はゴミ箱へ、着替えは適当に汚しておけばいい。父親には言ってあるし、そうすることも認められている。  もっとゆっくり出ればいいのにと言いすがる母親を振り切って、家を出た。どんより重い雲。雨になりそうだ。こころなしか空気も湿っぽい。雨の匂いがする気がする。アスファルトの埃っぽい匂いは、イライラするから嫌いだった。母親の目を思い出す。ベタベタと絡みつくような視線。  幼い頃、ある日突然その気持ち悪さに気づいてしまって、家を飛び出したことがある。街をさまよっていると雨が降ってきて、ぬれて震えるはめになった。そのときも妙にイライラしていた。  そんなことがあるから、あのイメージももしかしたら本当のことだったのかとも思った。でも僕はうさぎのぬいぐるみなんて持ってないし、あんな屍の山を見たら間違いなく覚えているはずだ。  不思議な話だ。夢で見た覚えもないのに。 「おはよう!」  後ろから勢いよく肩を叩かれて、僕は跳ね上がりそうになった。振り返ると、石塚綾音が立って笑っていた。二つに結んだおさげが揺れている。 「やめろよ、おどろいただろ」 「もう、大げさだなー。ただ挨拶しただけだって」  微笑みそうになるのをこらえると、しかめっ面になってしまう。綾音は幼馴染で家が近いから、度々登校時間が重なった。でもこうして二人で会えたのは久しぶりだ。最近綾音は友達と待ち合わせしていくから、見かけてもなかなか声をかけられない。 「どうしたの、そんな憂鬱そうな顔して。あ、雨降りそうだからか」  綾音は勝手に納得し、ひとり頷いた。答えるように僕も頷く。 「やっぱだめなんだ。苦手で」 「けど今日は雨降らないかもしれないよ? 天気予報、曇だって言ってるニュースがあったし」  綾音はにこにこして言う。思わず口元が緩んでしまう。それは嘘かもしれないし、きっと間違ったニュースだろうけどそう言ってくれることが嬉しかった。さっと風が吹き、二人の髪を揺らした。通学時間だが、道に他の中学生はいなかった。犬の散歩をしているおじさんが横を通っている。綾音から目が離せないのに、妙に神経が鋭くなっている。 「そうだといいなあ」  こうして無邪気な、とりとめのないことばかり話していると学校に着いてしまう。綾音と話していると、時間が一瞬ですぎるようにも永遠のようにも感じる。両方とも本当で、泣きそうになるくらい幸せだ。 「じゃあまたね」  教室の前に来ると手を振って別れた。僕もこわばった手でぎこちなく振りかえした。一人になってみると、さっきの憂鬱な気分が消えているのに気がついた。  綾音と最初に会ったのは、僕が家を飛び出した日だった。ずぶ濡れでふらふらと歩いていたとき、大丈夫かと声をかけてくれたのだ。行く場所がないというと、家にいれてくれた。僕は知らなかったけど、どうやら同じ幼稚園だったらしい。友達という言葉が無縁だった僕は、仲良くなってしばらくしてもそのことに気づいていなかった。 「きっとさ、邑楽くんのお母さん、邑楽くんのこと大好きなんだよ」  風呂を借り、濡れた服を乾かしていると綾音は言った。でも言い返す前に、こう続けてくれた。 「でも私達にはわかんないよね。そんなの押し付けられても困るっていうか」  僕が綾音の方を見ると、綾音は肩をすくめて笑った。何かが崩れ落ちた気分だった。綾音は年の割にませていて、大人みたいな言い方をした。今思い出しても泣きそうになる。結局綾音の親からうちに連絡が行き、帰らなくてはいけなくなってしまったけれど、綾音はいつでも逃げてきていいよ、と言ってくれた。その言葉に甘えて、僕は何回か綾音の家に遊びに行った。  あの日から、僕は綾音に救われ続けている。だから、今度は僕が綾音を守らなくてはいけないのだ。  その日は理科室で授業があった。まだ移動には早かったけれど、教室にいることもはばかられた。それで先に行くことに決め、理科室の前の廊下を歩いていると、綾音が階段の踊り場で誰かと一緒にいるところが目に入った。 「俺、君のこと好きなんだ」  その声ははっきりと僕の耳に届いた。男の声だった。  思わず足を止め、踊り場を上がった階段の影に隠れた。心臓がばくばく音を立てた。  綾音が人気なのは知っていたけれど、告白の現場を見てしまうのは初めてだった。しかし、綾音が誰かと付き合ったという話は聞いたことがなかった。どうせ今回も断るのだろう。朝の綾音の笑顔を思い出す。綾音と釣り合う人なんていない。 「は、はい、その、私も、です」  は?  波打っていた心臓が、凍った。急に固まったので、苦しくて破裂するかと思った。男の歓声が白々しく聞こえた。そっと盗み見ると、見たことのある男だった。黒髪の、確か、どこかの部長か委員長。体育館の壇上で話しているのを見たことがある。  二人が階段を登ってくる足音が聞こえる。急いで立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。僕は廊下に座り込んで動けないまま、綾音の足音を聞いていた。もう見つかっても仕方ない。覚悟して二人が登ってくるのを見ていた。 「信じられないです。本当に、嬉しい」  思わず目を疑った。綾音は顔を赤らめ、目を輝かせて男を見ていた。唐突に僕は立ち上がった。気が付かれたかどうかもわからないまま、一目散に理科室に駆け込んだ。肌がザワザワとあわだった。身体に力をいれていないと分解してしまいそうだった。理科室の机に突っ伏していると、ぽつ、ぽつ、と音が聞こえた。雨粒が窓を叩く音だった。 「やっぱり降るじゃんか……」  呆然と見ている間にも雨は激しくなり、たちまち外がぼやけて見えなくなった。  綾音が付き合ったことは、すぐに学校中に広がった。相手は、生徒会の副会長だった。女子に人気だったらしい。クラスの人が嘆いていた。  あの日以来、僕は綾音と話していなかった。朝いつもの時間より早く家を出て、廊下にもあまり出ないようにした。もちろん家にも行かない。そうしてみると、顔を合わせるどころか姿を見かけることも少なかった。思いの外簡単に切れてしまう繋がりだった。 「ねえ!」  その日の帰り道、不意にかけられた声に振り向いてしまった。綾音だった。やってしまったと思ったが、もう遅い。 「久しぶり。……元気?」  綾音の声に苦笑する。きっと綾音もなんて声をかけていいかわからないのだろう。 「うん、元気」  綾音が照れくさそうに笑い、何もなかったかのように話し出す。平穏な帰り道。 「今度のテスト、結構自信あるんだ。競争しない?」 「やだよ。どうせ勝つし」 「ひどいなー、私をなめないでよね」  勉強は得意だった。中学に入った頃は綾音と一緒にテスト勉強もしていた。今回も教えられるように準備はできていた。 「今日はあの先輩と一緒じゃなくていいの」  不意をつかれたように綾音がこちらを見た。すぐに恥ずかしそうに目をそらす。 「……うん。今日は仕事があるから先帰っててって」  そう、と頷くと、会話が途切れてしまった。気を紛らわすために、今日何をするか考えた。まだ数学の問題集の直しが終わっていない。それを仕上げてから、社会の用語を覚えようか。 「ねえ、邑楽くん私のこと避けてる?」 「え? 避けてないよ」  場所は、駅前のマックにしようかな。あそこはちょっとうるさいけど、長時間いても何も言われない。 「嘘。先輩と付き合ってからもうひと月くらいになるけど、その間一回も会わないなんて変だもん。気にしてるの?」 「ああ、もうひと月なんだ。順調そうで良かったな。あ、俺駅前行くからここで」 「ごまかさないでよ、邑楽くん」  綾音が僕の腕をつかむ。背筋に悪寒が走った。  嫌だ。 「あ……」  反射的に振り払っていた。傷ついたような顔をしている綾音と目が合った。  僕は目をそらし、全力で走り出した。  駅前のマックは、ひどく混み合っていた。仕方なく裏通りのファミレスに場所を変え、ドリンクバーを頼んだ。僕は中学生にしては背が高いから、学ランさえ脱いでいれば怪しまれることもない。コーラを飲んで一息つくと、またあのイメージが降ってきた。  あの屍の山は一体なんなのか。まだ血の匂いがしていたということは、死んでからそれほど時間が経っていないはずだった。  振り払うように首を振り、テキストを開いた。考えたって仕方がない。だが今度は、綾音の顔がちらついて集中できなかった。僕は悪くない。裏切ったのは、綾音の方だ。綾音は、そういうの、ないと思っていたのに。そう思ってみても、手は進まなかった。  集中できないまま三時間ほど過ごしてから、席を立った。帰りたくはないが、これ以上遅くなると母親に怪しまれる。ファミレスから出ると、大きなバンが止まっていた。誰かの迎えだろうか。赤いロゴが入った黒いキャップの男が話しかけてきた。 「なあ、君、ちょっといいか?」  はい、なんでしょう、と答える間もなく抑え込まれた。口をハンカチで覆われる。息ができない。ゆっくりと意識が遠のいていく。 「よし、行くぞ」  先程の男の声が聞こえる。なんで、と問いかける声は届くはずもなく消えていった。  目を覚ましたのは、どこかの倉庫だった。薄暗い。今は何時だろうか。手足が縛られ、身動きが取れない。口は何も覆われていなくて、簡単に息ができた、 「起きたか」  冷たく、低い声だった。顔はよく見えない。男だということはわかった。 「まさか中坊だったとはな。また会えて嬉しいよ」  微塵も嬉しくなさそうな声だった。目を細めたが、やはりシルエットしかわからなかった。声にも記憶はない。 「あの、以前俺が何か……?」  問いかけた声は、思いの外弱気になってしまった。男は楽しげに笑った。ターゲットを罠にはめたいじめっこのような笑い方だった。 「そうか、お前はまだだったか。へえ、そうか。そいつは災難だったなあ。俺たちにゃ幸運だったけどよ」  この話し方だと、身代金目当てというわけでもないらしい。僕に狙いを定め、意図的に誘拐している。なぜ? 何がまだなんだろうか。  これではそうそう家に帰してもらえそうにない。帰ったところで半狂乱になった母親に、自宅軟禁をくらうかもしれない。  最悪だ。もうなんで今日はこう嫌なことばかり起きるのだろう。  おい、起きたのか、と今まで話していた男の後ろから声がした。男が返事を返すと、さっさと言えと怒られていた。その声にももちろん心当たりはない。  もう一人の男は現れると、倉庫の電気をつけた。眩しい光に目をそむける。目が慣れると、よく駅前のゲーセンにたむろしているような青年が二人立っているのがわかった。一人は声をかけてきた黒いキャップの男で、もう一人は一部分だけ髪を赤く染めていた。二人ともオーバーサイズのパーカーを着ていたが、キャップの男のほうがかなりガタイが良かった。  キャップの男は、赤髪の男を振り向いた。 「なあ、こいつ覚えてねえってよ」 「うわ、まじかよ、らっきい」  こちらも楽しそうに笑う。なんのことかまるでわからず、だんだん腹が立ってきた。 「あの、すいません、人違いじゃないですか? 俺、ほんとに心当たりないんですけど」  言い終わる前に、腹を思い切り踏みつけられた。内臓が口から出そうになる。目から涙が出て、視界が歪んだ。体中が思い出したように震えていた。  赤髪の男に前髪をつかまれ、無理やり顔をあげさせられる。舌に開けたピアスが見えた。目が合い、また心がざわついた。無感情で死んだような目がそこに二つ並んでいた。 「まあなんも覚えてないやつ殺ってもつまんねえしな。思い出させてやるよ。お前、自分のじゃない記憶がないか?」  自分のじゃない記憶。言っている意味がわからない。表情に出ていたのか、赤髪の男は軽く舌打ちした。 「物分りわりいな。やっぱさっさと殺っちまうか」 「なんでか浮かんでくる映像みたいなやつだよ。夢とか昔のこととか、そんなんじゃねえのにただ浮かんでくる記憶。ありゃ前世の記憶ってやつでな、それが俺たちにはあんだ」  黒キャップが付け足すように話す。前世。この男の口から出てくるにはひどく不釣り合いな言葉だった。でも、ただ浮かんでくる映像。それは、確かに、 「ま、いいや。そんなこんなで俺らはお前を恨んでんだよ。恨むなら前世のお前を恨んでくれ」 「いやいやいや待ってくださいよ。そんな、いみわかんないし、だいたい僕とは関係なーー」  言葉は途切れ、悲鳴になった。黒キャップが僕の人差し指をつかみ、爪を剥がしたのだ。目線を下に向けると、真っ赤に染まった指が見えた。一本だけなのに、燃えるように痛かった。 「ちょ、やめ、やめてくださーー」  男たちは容赦なく爪を剥がしていく。やめろやめろと叫んでいると、金的を食らって声さえあげられなくなった。もう何がなんだかわからない。爪を剥がし終わると殴る、蹴るが始まった。男たちが恨んでいるというのは本当のようだった。死ぬほど痛いのに、気を失うことができない。次第にただ殴られるままにされているようになった。  不意にあのイメージが蘇った。屍の上に立つ。イメージの中の血の匂いが、今の匂いと重なってより強烈になった。コンクリートの上に横たわる男たち。雨の匂い。ぬいぐるみ。めちゃくちゃな絶望感。 「そろそろやめるか」  赤髪が手を止めた。僕はボロ雑巾みたいに倉庫の床に横たわっていた。大きく息を吐き、深く吸い込んだ。 「続きはまた明日にしようぜ」 「そうだな。明日なら他の奴らも呼べる」  そうだ、思い出した。あのとき僕は、確かに絶望していた。  二人の男は僕の肩をつかみ、壁の方へ押しやった。赤髪は僕に顔を近づけ、僕の腰と手をロープで縛ろうとした。僕は身を乗り出し、むき出しになっていた耳を噛んだ。 「痛ってえー!」  赤髪は大げさな悲鳴を上げて飛び退いた。その瞬間を僕は見逃さなかった。倉庫には、いろいろな道具が置かれていた。近くにあったのこぎりみたいな刃物にむけて、身体ごと突き刺さるように倒れ込んだ。 「何やってんだこいつ」 「自殺する気か?」  男たちは唖然としていた。背中も切れたが、ロープも切れた。僕は手のロープだけを切った状態で刃物を持ち、男たちに突きつけた。血が背中を伝うのがわかった。 「おい、なにする気だよ」  声にほんの少し怯えが滲んでいる。僕はなぜかどうすればいいかわかっていた。身体をねじるようにして刃物を大きく振り回した。刃物で二人を遠ざけるようなふりをしておいて、その勢いで足のロープを切った。足ごと切れそうなほどの勢いだったけれど、僕には大丈夫だとわかっていた。不思議な感覚だった。どうすれば切れて、どうすれば切れないか、すべてなんとなく察することができた。  すべて身体が自由になったことを確認し、僕は立ち上がった。 「人を閉じ込めようというのに、よくこんなもの置いておけたな」  ひどく冷静な、呆れたような声になった。  腰が引けた男たちの横に、刃物を突き立てた。黒キャップの腕が、びくん、と動いた。 「お、おおおまえ、俺たちを殺す気かよ」 「わ、悪かったって、なあ、悪いことは言わねえからよ、や、やめとけって」  トラウマにもなりかねないあのイメージ。あれを見て僕が感じていたのは、恐怖というより安堵だった。 「お前ら、俺に復讐したいって言ってたな。他にもそういう奴らいんのか」  凄みを利かせて尋ねると、男たちは数回首を立てに振った。 「……へえ」  そうだった。思い出した。前世の僕は人間社会の全部が嫌いで、絶望していた。  今の僕と、同じように。  僕は刃物を振るった。何も思わず、さりげなく。ちょっと素振りでもするかのように。あっさりと二人の男の首が飛んだ。冗談みたいに血が吹き出した。コンクリートの床に、ゴロンと頭部が転がった。  またあのイメージが、感情が、記憶が、フラッシュバックのように頭に浮かんだ。あの死屍累々の中で、前世の僕は絶望的に空っぽだった。何か大切なものを失ったばかりだった。あれは無為の殺戮なんかではなく、何かの弔い合戦だった。 「……決めた」  復讐に来る者を迎えてやろう。なぜかわからないけれどこの人達にわかったなら、きっと他の人達もやってくる。彼らを殺していったなら、きっと記憶ももっと蘇る。大切なものだってきっとわかる。僕が生まれ変わったんなら、その大切なものだってきっと生まれ変わってる。  あれがあれば、きっと僕も幸せになれる。  見たことないものに期待するなんておかしいけど、どうせこんな世界だ。あれを取り戻すためなら今生なんていらない。  背中がひどく痛かった。ロープを切ったときに傷つけてしまった分だ。一度痛みを思い出すと、指先も、体中も痛かった。血が止まらなかった。僕は死体の服で持ち手の部分を拭い、その場に放った。そうして横にあった自分の鞄からスマホを取り出し、119を押した。
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