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春の風はゆるやかに頬をなでる。
この部屋にあるのが背の低い窓で良かったといつも思う。ベッドから身体を起こしただけで、十分中庭が見下ろせるから。僕は外と繋がる唯一の四角から、色とりどりの花が風にそよぐのを眺めていた。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます。母さんも」
「ええ」
部屋のドア越しに、世那と母さんの声が聞こえた。
朝に心地いい涼やかな音。少しだけ笑みを含んだ世那の声は、聞く人を思わず笑顔にさせる。僕の耳はあとどれくらい、この幸せを拾えるだろうか。
「新聞、よろしくね」
「――うん」
「いつもありがとう」
「ううん」
一拍遅れた世那の声に、母さんが気づく様子はない。そのまま母さんが階下におりていく静かな足音が聞こえた。
少しの間。軽いノックが三回聞こえて、返事を待たずにドアが開いた。
「おはよう」
いつもと同じ、ぴしりと着こなされた高校の制服。僕と同じ作りの不機嫌そうな顔がのぞいた瞬間に、僕はにっこりと笑みを浮かべて見せた。世那の表情など――その感情など、まるで意に介していない風を装ってみせる。
世那の口は閉ざされたまま、いつものように返事はなかった。
「おはよう」
明るく、けれどあくまで穏やかに。追い打ちをかけるように声を重ねると、世那の顔が少しだけ歪んだ。
(いいよ、世那)
僕はもれ出してしまいそうになる笑みを、呼吸と一緒に飲み込んだ。
母さんか父さんが近くにいれば、世那は言葉だけでも返事をしてくれる。作った笑顔を見せてくれる。それで好きなのだけれど、たぶんこの表情は僕しか知らないのだ。
名家、九条の一人息子である九条世那は、こんな態度を外では見せない。
この世那を見られるのは僕だけなのだと思うと、今まで種を蒔いて、水をやって手をかけてきた成果が現れたのだと思うと本当に嬉しくなる。
世那はため息にも似た息を吐いた。それは感情を殺す世那のくせだ。きっと外では、こんなあからさまにはやっていないだろうけど。それでもこんな時でさえ自分を律しようとするのはさすがだと思う。
世那は無言でベッドの脇までやって来ると、ざ、と今日の朝刊を差し出した。
「ありがとう」
見上げた世那の虹彩は、朝日を取り込んで薄いブラウンに染まる。光を集めた綺麗な色。世那から見る僕の目は、暗闇だろうか。
(もう少しだけ)
僕はゆっくり手を伸ばして、重ねられた薄紙の端を持った。両端に力が加わった新聞が、ぱきりと音のない声をあげる瞬間。世那はさっと手を離してしまった。
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