Chapter8. 『過去と未来』

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「ディア……ナ……?」 ディアナの身を貫いたナイフが引き抜かれた途端、彼女の背から鮮血が舞う。 ディアナは哀しげに目元を歪め、逃げてと唇の動きだけで伝えると、音を立てて地面に倒れ込んだ。 その拍子に、彼女の周囲にぱたぱたと血飛沫が飛び散る。 倒れ伏したディアナの表情は、窺えない。 だが、ぴくりとも動かない小さな身体が、吐き気がするほどの嫌な予感を突きつけてくる。 「……やった!! やったぞ!!」 ディアナを刺した男が、血濡れたナイフを握り締めたまま、拳を天に掲げて耳障りな雄叫びを上げる。 「あの人の言う通りだ!! 女の体力を削いでからノヴェロ王とかち合えば、女に隙ができるって!!」 この男は、何を口走っているのか。 (……俺がここに来なければ、ディアナは刺されずに済んだ……?) ヴァルが何も考えずにディアナの元まで来たから、こうなってしまったのか。 先程まで殺気を放っていた背後の男は、今では攻撃してくる気配すらない。 あれは演技だったのかと、呆けた頭で考える。 咄嗟に保身に走らせ、ディアナの守りをなくすために、ヴァルを殺すふりをしたのか。 のろのろとディアナの元に歩み寄り、膝をついてその背に触れる。 彼女の身体は、まだ温かい。 鼓動も、手のひら越しにしっかりと伝わってくる。 しかし、安堵したのも束の間、そっと持ち上げた手のひらにはべったりと生温かくて赤黒い液体が付着していた。 これが血だと認識するのに、妙に時間がかかった。 「おい、女はもう死んだんだ。ついでに、ノヴェロ王の首も取ろうぜ」 「ああ。王って呼ばれてる割には、大したことねぇな」 下卑た笑い声が、鼓膜を侵食してくる。 殺気が、今度こそ本当にヴァルに向けられる。 (……死んだ?) 今、目の前に倒れているディアナは死んでしまったのか。 まだ鼓動が脈打っているというのに。 温もりも、まだ失われていないというのに。 それなのに、彼女は死んだというのか。 眼前に突きつけられた現実を、認めたくない。 いや、認めてたまるものか。 ディアナの傷に障らないよう、そっと抱き起こす。 彼女はぐったりと青ざめた顔で、瞼を閉ざしている。 確かに、ディアナは生きている。 でも、自分の所為で彼女の命が危機に瀕してしまったのも、また事実だ。 自分に対するやるせなさと、ディアナの命を摘み取ろうとした男への怒りが、胸中で凶暴的に膨れ上がって爆発する。 その時、自分のものとは思えぬ咆哮が、喉を突き破った。 こちらに近づいてきていた気配が、怯えたように距離を取る。 その様が滑稽で、乾いた笑い声が漏れ出る。 「……何を恐れる必要がある? 貴様らは、今度は俺の首を取るんだろう? できるものなら、やってみろ」 男たちは今さら怖気づいたのか、じりじりと後退していく。 (……許さない) この腕に抱いている温もりを奪おうなど、断じて許さない。 血が沸騰したかのように、熱いものが全身を駆け巡っていく。 彼女を抱いたまま、ゆらりと立ち上がる。 「……ひっ……!?」 男の一人が、世にも情けない悲鳴を上げる。 何事かとその視線を辿れば、自分の身体から蜃気楼のように黒い影が立ち上っていることに気がつく。 (……だから、どうした?) この影の正体は知らないが、己を縛りつけていた何かが、解放されていく心地がする。 それはひどく甘美な感覚で、陶酔めいた気持ちが込み上げてくる。 そして、再び咆哮を上げる。 すると、途端に己の何もかもが変わっていく錯覚に陥った。 次第に二本足で立っているのが辛くなり、ディアナの身体を一度地面に横たえると、両腕を地につける。 その腕はもう、人のものではなかった。 容易には傷つかないであろう太さがあり、黒い体毛に覆われ、爪は刃のごとく鋭い。 まさしく、獣の足そのものだ。 もう一度、天に向かって声を張り上げると、狼の遠吠えによく似た音が耳をつんざく。 「ば……化け物……!!」 蝿(はえ)の羽音みたいに不快な音がしたので、そちらに勢いよく足を振り下ろす。 そうしたら、ぐちゃりと果実が潰れたような音がしたかと思えば、血飛沫が飛び散った。 肉球や爪、体毛に付着した血糊が鬱陶しく、苛立ち紛れに前足を薙ぐ。 地面に血の雨が降り注ぎ、赤黒い体液が染み込んでいく。 もう一つの不協和音が神経を逆撫でし、そちらは凶刃のごとき牙で噛み砕く。 一片の肉も一滴の血も体内に取り込みたくなかったので、素早く吐き出す。 すると、血の滝と共に肉塊がごろごろと地面へ転がっていく。 これで、ようやく場に静寂が訪れた。 一つ鼻を鳴らしたところで、ディアナの元へ歩を進める。 気をつけておいた甲斐があり、彼女の周りには欠片も汚れがない。 そろそろと鼻先を近づけ、ゆっくりと口を開く。 そして、万が一にも肉を食いちぎってしまわないよう、細心の注意を払ってディアナの外套を咥え、首を捻って自分の背に乗せる。 ディアナは相変わらず意識を失ったままだが、体毛が滑り止めの役割を果たしているため、ヴァルの背から振り落とされることはないだろう。 ディアナを自分の背に乗せて満足したところで、まだ目障りな気配があることに気がつき、低く唸る。 少しでも彼女を傷つける可能性がある存在は、即刻排除しなければならない。 そうでなければ、この心に安息が訪れない。 愛する女の安寧を守るためにも、牙を剥かんと駆け出す。 ――獣の王者は身代わりの花嫁を自らの背に乗せ、本物の獣へと成り下がっていた。
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