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彼女のいない日
辺り一面に鳴り響く綺麗で美しい音によって目が覚める。本当だったら清々しく感じるはずなのに……。訪れたこの朝も、素晴らしく聴こえる筈のこの音も、僕にとっては苦痛の他、なにも感じられない。目覚めること事態が地獄のようだ。寝ていればなにも考えないでいい。なのにいつも通り目が覚めてしまった……。
彼女を昨日に置いてきたまま……。
起き上がってしわくちゃになった服を見る。そうか、あのまま寝てしまったのか……。
風鈴の音色とは反対に僕の気持ちは酷く重い。昨日のことを忘れるために洗面所に行き、暑さで生温くなった水で顔を洗って、自分の顔をまじまじと見つめる。赤く腫れている目は昨日起きた事を現実なんだと、逃げ出した僕を捕まえて離さないまま連れ戻し、忘却と言う手段と選択肢を与えてくれなかった。
「………くそ………。」
そんな世界に対して腹が立つ。僕が何をしたって言うんだよ……。僕から幸せを奪うなよ……。拳を握りしめてようやく沸き上がってきた言葉達は発する訳でもなく、ただ胸に広がっていく。全部奥底に眠っていた本心なのだろう……………。
あんまりだよな……。幸せだ……。この時間はいつまでも続く……。そう思っていたのに……………。
あっという間に世界は、僕の知らない物へ180度変わって、心も全て真っ逆さまに地獄へ落ちた。それがたった1日で起きた出来事だ。
………笑ってしまうくらいに残酷だった。理不尽なんだ。そんなことってあるのだろうか?
まだ、昨日のことが信じられなくて、何より信じたくない僕は、鏡を見つめて何処にもない答えを探した。そしてようやく掴めたのは虚無。あってもないようなものだ。どうしようもなくなって泣きそうな顔をした僕は鏡に、そして本当の自分にまでも背を向けた。
そうするしか出来ないのだ……。
そのまま、おばあさんとの約束を果たすために支度を初め、彼女のいる病院を目指すことにした。
暑さのなか、昨日とはうって変わってだらだらと歩く。早く行きたくても体は言うことを聞かない。それもそうだ……。彼女が入院している病院に向かうと言うことは、意識不明で倒れて、余命がもうないと言う最悪な事実を僕が認めてしまうことになる。
嫌でも行かなくてはいけないのに………。
結局寄り道する元気もなく、あっという間に病院に着いてしまった。看護師さんに必要最低限、面会とだけ伝え昨日と同じように階段で、けれど昨日とは違う気持ちとスピードで彼女の病室に向かう。ただ涼しい院内を機械的に動いているだけ。今の僕は、何事にも背を向けて感情の行き場もない状態だ。
彼女が寝ている場所のすぐそばの椅子に辿り着いて、ゆっくりと腰をおろす。開かない目を見つめて、笑っていた彼女はもう過去で、そんな笑顔も未来永劫見ることは出来ないのだろうか?そんな最悪の考えを巡らせては溜め息をついた。
朧気に彼女の手を握る。あたたかいのにつめたい。自分で思ってそんなこと矛盾していると分かり否定する。それでも、そう感じた。幸せが僕の手から、雫が氷の塊になったように溢れ落ちたのを直に感じる。
目が開かないのに開くと信じて見つめてそばにいることしかできない。………僕は無力だ。
「………ごめん………」
これしか言えない。僕にはこの言葉しか伝える資格はない。握り返される事のなかった手をそっと元の場所に戻す。気づいてしまった………。当たり前だけど………。彼女の小さな手は、包むように繋いだ僕の握り返すことはなかった………。それが事実で現実だと言うことに。
「………本当にごめん………」
最後に呟いた。けれど本当に言わなければならない言葉がまだ残っている。でも、どうしても続けられない。
ーさよならー
たった一言なのに僕には言えなかった。臆病者なんだ。言いたくても無理だ。唇を血が滲むほど強く噛み締める。涙を溢れさせないように上を向く。きつく拳を握る。分かってる。言えばきっと僕は解放される。
………恋人と言う甘い関係が終わる別れの言葉だ。口にすれば楽になる。毒が僕からなくなる。なのに………。
言ってしまったらここで全てが終わる、その単純明快で当たり前な事実が刃となって胸をひとつきで貫いた。結局は僕のわがままだ。
傷つきたくない、もう苦しみから解放されたい、だけど、せめて最期まで僕の恋人と言う姿でいて欲しい……。醜い独占欲だ……。
「………ふぅ…………。」
息をつくようなため息が出た。仕方がないだろう。さよならは言わない。………言わないけれどもうここには来ない。静かに眠る彼女を目に焼き付ける。僕にも彼女にも、そして大切な彼女の家族にもそれが一番だろう。ゆっくりと目を閉じる。鮮明に彼女の姿が目蓋の裏に写る。
……大丈夫だ。もう忘れない。でももう思い出しもしない。目を瞑ったまま彼女に背を向けて歩き出す。段々と視界を広げていく。それと共に、彼女と過ごした日々は僕の中にある箱に綺麗に美しく仕舞われていく。
一つ一つ丁寧に大切に………。
「ガチャリ」と音が響く。
僕は、完全に病室を出ると同時に、暗闇の中に、何重にも鍵をかけた箱を葬ったのだった………。
病院を訪れることなく、あっという間に夏休みが終わり、新学期が始まった。勿論彼女の姿はない。朝のホームルームで、彼女の身に起きたこと、そして真実が、担任の口から一つ一つ丁寧に明かされていった。誰もこんなこと想像できなくて当たり前なんだ……。
信じられずに目を見開く者、すすり泣く者それぞれ色んな思いがあるのだろう。鉛のように重たい静寂が広がっていく。彼女が愛されていたという事が身に沁みて分かる。
僕は下を向いたまま、ただこの時間が終わることを静かに待った。解散を言い渡され、結局なにも変わらないいつも通りの授業を受けた。誰も僕に話しかけては来なかった……。
みんな僕に気を使ったのだろう。そのまま時は流れて放課後になり、夏休み前と変わらず弓道場に向かった。緑の木陰を生暖かい風に押されながら歩いていると中から部長と副部長が出てきたのが分かった。部長と副部長は僕を見つけるとすぐに駆け寄ってきた。
「………こん……に……ちは。」
途切れ途切れでか細く繋いだ言葉を聞いた部長は
「……えぇ。」
とだけ短く答えた。不意に副部長が僕の頭に腕を回して、
「………なにも言わなくていい。
全部聞いた………。………辛かったとか……そんな簡単な言葉じゃ表せないもんな………。
我慢すんな………。」
そう言って抱きしめてくれた。その上から涙目の部長も手を重ねて僕を暖かく包み込んでくれた。クラスでは我慢したものがこぼれ落ちた瞬間だった。
「………僕は……!
……僕はなにも知らなかったんです………!
彼女が抱えてたものも、隠してたことも……何も、1つも知らないまま……伝えてもくれなくて………。
知ったときにはもう病院で………!
初めておばあさんの口から事実を伝えられたんです……。もう彼女は生きられないんだって!
全部何もかも知ったときには手遅れで………。
………彼女は目を開けてくれませんでした………!
………結局、僕は受け止められなかったんです!
………逃げたんです………。
……何もしてあげられなかった……
何で……何で?!
……僕じゃダメだったんですか?
………僕じゃ力にもなれない、僕じゃ助けてあげられないんですか?!………なんで…………。
………どうして……!どうして………。」
部長も副部長も、何も言わずにただ側で、小さな子どもの様に泣いて喚く僕を、包み込むように抱きしめ続けてくれた。本当にこの2人は優しすぎるし、僕という人間を理解してくれている。気持ちが楽になることはないが、少しだけあたたかくなる。
けれど、僕が感情を表に出したのはこれが最後となった………。
茜色に染まる空は、そんな僕を嘲笑う月を迎え入れる準備をしていた………。
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