日常風景

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日常風景

 玄関に行きスニーカーを履く。 そんな普通な事でも、今は体の全てが強ばってしまい、うまく動くことが出来ない。 錆び付いたロボットの様に動きが硬くなる。普段当たり前にやっていることなのに、かなりのぎこちなさで、僕のすべてが心臓になったかのようにうるさい。動く度に息苦しい。手が小刻みに震え出す。何もかも放棄したいのに、それも出来ずに、ただ感情が収まるのを待つ。 僕はやっぱり10年経った今でも変われてないんだ。変われなかったんだ。知っていても、またその事実が締め付けるかのように僕に襲いかかる。  どんなにこの街の風景が変わっていったとしても、僕たちの周りにいた人たちがどんなに大人になろうと、僕の時間は彼女への想いと一緒に閉じ込めてそこからひとつも進んでないんだ。 彼女にこの先はもうない。 これはあの時完璧に決まった覆ることのない現実。それなのに僕だけ先に進むのが怖くて、僕が大人になってしまったら彼女との本当の別れな気がして結局何も出来なかった。  だから僕は変わりたい。変わらなきゃいけない。彼女に囚われない日々。これも今の自分からしたら非日常なのだろう。そう思えば少しは前に進んでいける出来事が起きる気がする。それでも体は言うことをなかなか聞いてくれない。理由は分かっている。 思いもよらぬところで、思い出の中の彼女が姿を現したからだろう。でもこれでいいんだと言い聞かせる。 そうしないと、彼女を閉じ込めるための黒い靄がまた姿を現してしまう。  僕はなんとかスニーカーを履いて、冷たい空気を思い切り吸い込む。錆び付いていた体に循環して全身の熱を逃がしていく。そして、息をゆっくり、長く吐き出す。また思い切り吸い込む。 何回も繰り返して、ようやく日常に戻した。 これなら何があっても大丈夫だろう。今から訪れる所が僕にとっての非日常であっても、きっと大丈夫だ。 僕は静かに扉を開けた。  外に出ると肌を刺すような痛さと体の内側から来る冷たさが、一瞬で身を包んだ。歩いているうちに玄関を開ける前までの温度が完全になくなった。寒い。いくらなんでも寒すぎる。 まだ家を出たばかり。 数分もしないうちに帰ることも出来るが、それは気分がのらない。同じ日々の繰り返しが嫌になっていた、と言うのもあるだろう。唯一の救いであるカイロを片手にまた歩みを進めていく。目指す場所は、僕たちの展望台だ。  本当は行く気なんてなかった。違う場所でも朝焼けを見ることはできる。しかし、僕は気づいてしまった。10年も経ってしまっている今でも、彼女にとらわれていることに。だからと言って、彼女との思い出は忘れようとは思わない。 これから先も忘れる気はない。 それでも、自分自身が変わらなくてはいけない気がした。いい加減こんな自分に嫌気がさしてきたのだ。普通に考えても、こんなに執着していたら気持ち悪いだろう。 だから、溢れ出てきた彼女との思い出と一緒に、展望台に行くことにした。そうすれば、彼女との区切りもつけることが出来ると……。  展望台は僕のアパートから15分程歩いたところにある。道中、犬の散歩をしている人や、バイクで新聞配達をしている人、校名の入ったウェアで朝のランニングをしている学生とすれ違ったりした。 この人たちは、これが日常で習慣なのだろう。 僕にとって、毎朝こんなにも早い時間に起きて必ず決まったことをやるなんて出来る気が全くしない。今日、1日だけならまだいいが、継続していると言うことに尊敬する。 僕自身、飽きっぽい性格で、どんな事も長くは続かなかった。だから、目標のために一生懸命になれる事も少なかった。  それでも、僕にだって1つくらいは今でも続けていることがある。高校入学と同時にはじめた弓道だ。誇れる程上手いと言う訳でもないが、特技を聞かれたらまずはじめに答えるだろう。 父親の影響ではじめたが、いつしか弓道中心の生活になるまでのめり込んでいった。  正直僕自身驚いた。 水泳も、野球も、サッカーも、ある程度出来るようになったら辞めてしまった。友達に勧誘されて、断れずにはじめるのだが、なにもかも、好きになることが出来ずに、そのまま飽きて辞めてと言うことを繰り返していたのだ。  そんな僕が唯一惹かれたもの。それが弓道だったのだ。毎日道場に1番について、練習にも真面目に必死に取り組み、部員の誰よりも弓道が好きであったと思う。もしかしたら、彼女がいたからなのかもしれないが……。  頭の中で、再び昔のことを思いだしながら歩いていたら、あっという間に展望台に着いた。 10年前と変わらない姿に少しだけ安心する。 この展望台で過ごした懐かしい記憶もだんだんとよみがえってくる。  近くに建っている時計台を見ると、まだ日の出までには時間があるようだった。  ふと辺りを見回してみる。 何もあるはずはないが、なんとなく見てしまった。それは予兆もなく僕の前に現れた。 息をするのも忘れるくらいの出来事だった。 そこには、この季節に似つかない、麦わら帽子を被り、白の花柄のワンピースを着たおのと着と同じ姿をした『彼女』がいたのだった……。
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