馴れ初め

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「諦めるしかないのかな……」 そう呟くと、不思議なことに海から低い声で返事が返ってきた。 「何を?」 驚いた私が目を凝らすと、砂浜に上げられている木船の上で寝転がっている人が起き上がるのが見えた。 「内藤(ないとう)さま……」 私も顔を覚えるほどうちの旅館をごひいきにしてくださるお客様だ。 「明音ちゃん、何か困りごと?」 優しく尋ねてくださるけど、お客様にこんなことをお話するわけにはいかない。 「いえ、大丈夫です。  ご心配をお掛けして申し訳ありません」 私は頭を下げた。すると、船を降りた内藤さまがこちらへ歩いてくる。 内藤さまは、30歳過ぎの男性で、つい見惚れてしまうほどのイケメンさん。 私が密かに憧れるお客さま。 「もしかして、お金のこと?」 「えっ?」 何かご存知なの? 「俺も経営者の端くれだからね。いい噂も  悪い噂もそれなりに入ってくるんだよ」 そっか…… 内藤さまは、今、話題のIT企業の社長さん。 そのルックスの良さもあって、頻繁にテレビにも取り上げられる有名人だ。 「明音ちゃん、俺は明音ちゃんの琴や友達の  ことはよく分からないし大した力には  なれないけど、お金のことなら  なんとかできるかもしれない。  話してみてくれないか?」 私は、内藤さまの優しげな瞳に吸い込まれるように、語り始める。 「実は……」 内藤さまは、特に口をはさむことなく、うんうんと相槌を打ちながら、静かに聞いてくれた。 「ごめんなさい。  お客さまにこんな内情をお話して  しまって……  こんな情勢ですから、仕方ないのは自分でも  分かってるんです。  今日だって、お客さまもほとんど  いらっしゃいませんし、両親が何も  言わなくても、うちの経営状態が良くない  ことは、分かってたんです。  ただ、今すぐ好きな音楽を辞める決心が  つかなかっただけで……」 私は、込み上げるものを抑えきれず、あふれる涙を見られないよう、うつむいて両手で顔を覆った。 そこへ、内藤さまのあたたかな手が頭に触れる。 「本当は、  一生言うつもりはなかったんだけど……」 内藤さまの声が優しく響く。 「もし、明音ちゃんが俺のこと、嫌いじゃ  なかったら……」 ……なかったら? 内藤さまは、なかなか次の言葉を発しない。 「ふぅぅっ」 内藤さまは深呼吸をひとつする。 なに? そんなに言いにくいこと? 疑問に思いながらも、泣き顔を上げられない私は、問いかけることもできない。 「明音ちゃん、もし、どうしても嫌じゃ  なかったら、俺のところへお嫁に来ないか?」
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