安倍晴明、妖狐の子どもを拾うの巻

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「狐の声が聞こえる」  安倍晴明がそう呟いた時、隣を歩く従者は「はて?」と首を傾(かし)げた。 「狐の声……でござりますか?」 「うん、狐の声だ」  真夜中である。  人の気配がない大通りを、この従者は陰陽師である安倍晴明とともに歩いていた。  普段なら活気あるこの路(みち)も、今はしんと静まりかえっている。  従者は提灯の持ち手を変えて、そっと耳に手を当ててみた。  しかし、何も聞こえない。 「気のせいではございませんか?」 「いや、確かに聞こえる」  なおも晴明は耳を澄ましている。  それはさながら聞き直しているというよりはどこから聞こえてくるのか探っているかのようだった。  と。  晴明は立てていた聞き耳を戻し、すたすたと裏通りへと向かって歩いて行った。慌てて従者も付き従う。  裏通りはさらに真っ暗闇に包まれていた。月の光さえ届いていない。  提灯の明かりだけを頼りに晴明は裏通りに置いてある大きな桶の中を覗きこんだ。 「おった」  そこには、蹴鞠(けまり)ほどの小さな子狐がいた。  偶然入ってしまったか、心なき輩に放り込まれたか。  理由は定かではなかったが、子狐は鳴き声をあげながら必死に出ようともがいていた。  晴明は桶の中に手を突っ込むと、逃げ回る子狐をむんずと掴み取った。 「そら、捕まえた」  ひょいと持ち上げた途端、従者が「ひい!」と悲鳴をあげた。 「せ、せ、せ、晴明様! そやつは妖(あやかし)ものではないですか!?」  驚くのも無理はない。  拾い上げた子狐には、尻尾が3本あったからだ。 「ふむ、どうやらそのようだ。妖狐の子か?」 「お、お捨てください……。憑り殺されてしまいます……」 「大丈夫だ、敵意はない」  晴明はそう言うと、子狐を目線の高さまで持ち上げた。  子狐は「きゅう」と鳴きながら晴明の目を見つめていた。 「はは、見ろ。可愛いではないか。綺麗な目をしておる」  従者は気味悪がって近寄ろうともしない。  晴明はしばらく子狐を眺めていたが、やがて人に話すような口調で問いかけた。 「おいお前、人の言葉はしゃべれるか?」 「きゅう」 「しゃべれんのか?」 「きゅう」 「人の言葉は理解できるか?」 「きゅう」 「人の感情は読み取れるか?」 「きゅう」  子狐は「きゅう」しか言わない。  しかし晴明はそれだけで「なるほどな」と頷いた。 「どうやら人の言葉や感情は理解できるようだが、話すまでには至らないらしい」 「妖の言葉がわかるのですか?」  従者が尋ねると晴明は答えた。 「わかるわけではない、そう感じるだけだ」  それはきっと、稀代の天才陰陽師と称される安倍晴明だからこそできる芸当だろう。  従者にとっては、ただ小さな狐が鳴いているだけにしか聞こえない。  子狐は助けてくれた晴明に礼を言いたいのか、3本の尻尾を振りながらしきりに腕の袖を噛んでいた。それを見て晴明はにっこり笑う。 「はは、これこれ。じゃれるでない」 「じ、じゃれているのですか?」  従者は信じられない面持ちで晴明がつかまえている子狐を眺めた。  妖が人に懐くなど、あり得ない。 「うむ、どうやら気に入られたようだ」 「まさか、そんな……」 「何も不思議ではあるまい? 妖も人の子をさらって育てるというしな」 「そ、それで晴明様。その妖をどうするおつもりですか?」 「そうだな、屋敷に連れ帰るか」    しれっと答える晴明に、さすがの従者も「へ?」と間抜けな声を出した。 「や、屋敷にですか?」 「ああ。しばらく屋敷で面倒を見てみようと思う」 「も、もしかして妖を飼うおつもりですか……?」 「嫌か?」 「おやめください! 陰陽師が妖を飼うなど聞いたことがありませぬ!」 「ならばおれがその最初の一人となろう」  こうと決めたら頑として言うことを聞かない。安倍晴明とはそういう男だった。 「それに、ここに置いて行ったら人に危害を加える妖となるやもしれんぞ? だったらおれの側に置いておいた方がいい」 「で、ですが……」 「大丈夫だ、何も心配はない。何かあっても責はおれがとる」 「そ、そこまでおっしゃるのでしたら……」 「だが、面倒を見るのはおれ一人で十分だ。子どもだとて妖だしな。下手に手を出すと喰われるから気をつけろ」  恐ろしい脅し文句を使う晴明の言葉に、従者は深くため息をついたのだった。      ※  子狐は、妖と呼ぶにはあまりにも動物に近かった。  屋敷中を駆け回り、珍しいものを見かけては引っかけ回す。  使用人の姿を認めるとすぐに逃げ出してしまう。  その姿はどう見ても普通の子狐で、妖ものには到底見えない。  尻尾が3本というわかりやすい特徴があるにも関わらず、晴明すらも「本当は普通の子狐なのではないか」と疑った。  しかし、人間の食事には一切手をつけず、三日三晩何も口にしなくとも元気に走り回る姿を見て、やはり妖の子どもだと確信した。 「おい、お前」  ある日、晴明は縁側に座りながら庭で遊んでいる子狐に声をかけた。  子狐は自分ほどの大きさの蹴鞠(けまり)にしがみつき、ころころころころと転がっている。  どうやら蹴鞠が大のお気に入りらしい。  蹴鞠と一緒になって転がっている様は、まるでひとつの丸い塊である。 「食事はどうしてるのだ?」  晴明の傍らには、従者が用意した酒と干し魚が置いてあった。  晴明は酒を胃に流し込みながら尋ねてみた。  子狐は蹴鞠から離れて「きゅ?」と首をかしげるだけである。 「飲まず食わずで生きていられるのか?」 「きゅ?」 「そら、干し魚をやろう。どうだ、食うか?」  しかし子狐は晴明の手に乗った干し魚に目を向けるも、すぐにそっぽを向いた。  どうやら蹴鞠との興(きょう)に余念がないらしい。  答えなどわかり切っていた晴明は「だろうな」と笑いながら盃に酒を注ぎ、再び胃に流し込んだ。  一週間もすると子狐はだいぶ屋敷に馴染んできた。  興味がなくなったといってもいい。あまり暴れまわらなくなった。  逆に晴明の側(そば)を好んだ。  晴明があぐらをかいて座ればその膝の上に乗り、横になれば肩に前足を乗せて起こそうとし、仰向けに寝れば腹の上に飛び乗って一緒に眠る。  その愛らしい姿に屋敷の使用人たちも目を細め、必要以上に子狐を怖がることはなくなった。  とはいえ、近づくことはしなかった。晴明からきつく止められているからだ。  愛らしいとはいえ、妖である。  いつ何時、人を襲うとも限らない。  しかし晴明の傍らで丸くなって眠ったり、蹴鞠につかまってころころと転がる姿を見る度に、使用人たちは癒されるのだった。      ※  そんなある日のことである。  一通の書状が晴明のもとに届いた。  差出人は藤原(ふじわらの)忠義(ただよし)。貴族である。  夜な夜な、妖が現れて困っているという趣旨の内容であった。 『つきましては今宵、屋敷にお越しくださいますよう願い候』  届けにきたのは忠義の屋敷の小間使いだったそうだが、顔色が悪く、今にも死にそうな顔をしていたという。  早速、晴明は準備を整え、忠義の屋敷へ向かうことにした。  月夜の晩である。  ちょうど、子狐を拾った夜に似ている。  提灯を持った従者が迎えに上がると、子狐はぴょんと晴明の懐に飛び乗って、狩衣(かりぎぬ)の内側に潜りこんでしまった。 「おい」  晴明が声をかける。 「きゅ?」  子狐は懐から顔を出し、晴明を見上げた。 「ついてくるでない。仕事だ」 「きゅ?」  しかし子狐は離れようとしない。  無理矢理、引っ張り出そうとも考えたが、自分の居ぬ間に屋敷で使用人を襲っても困る。  仕方なく晴明は子狐を連れていくことにした。 「はあ、わかったわかった。好きにしろ。しかし相手は貴族だからな。大人しくしておるのだぞ」 「きゅう」  わかっているのかいないのか、子狐は晴明を見上げながら返事をした。  藤原忠義の屋敷へは歩いて一刻ほどの距離である。  それほど遠いわけではないが、近いわけでもない。  すでに季節は秋から冬に入ろうとしている時期だ。さすがに夜は肌寒かった。 「牛車(ぎっしゃ)で来ればよかったかな」  歩きながら晴明がつぶやく。  隣で従者がくすりと笑った。 「いつも夜道は歩く方が好きだとおっしゃってますのに」 「時と場合による。今宵は綺麗な満月だが、歩く気にならん」  それも、懐に子狐を抱いたままではな。  そう呟こうとして、夜空を見上げた。  いつもは、おぼろげに浮かぶ月を眺めながら一句も詠む晴明だったが、この日に限っては何も浮かんでこない。  やはり、子狐が重くて仕方がない。  狩衣の隙間から顔を出す子狐を見て、従者はくすくすと笑った。 「何がおかしい?」 「いえ、陰陽師ともあろうお方が妖を胸に抱いて歩くなど、なかなか無い光景だなと思いまして」 「ふん、ぬかせ」  晴明は顔を赤く染めながらそっぽを向いた。  他の貴族なら従者のその言葉だけで処罰の対象だが、晴明は気にしない性格だった。  そこを従者もわかっているため、たまにこうしてからかうのである。 「それよりも、忠義どのの屋敷についたらおれから離れるなよ」 「はい」  すでに長年ともに行動している二人である。  晴明の言わんとしていることはわかっていた。  こういう正体がわからない妖は、近しい者に憑りつきやすい。  となると、一番に狙われるのはこの従者である。  従者は臆病ではあるが、それゆえに慎重で決して無理はしない。  だからこそ、晴明も重宝した。 「あと問題は、こいつだな」  懐の子狐を見つめながら、調伏の邪魔をされないかが気になった。  もしかしたら調伏の最中に巻き込んでしまうかもしれない。  相手が大物であったらなおさらである。 「せめて邪魔だけはするなよ」  そっと頭を撫でてやると、子狐は目をつむりながら「きゅう」と鳴いた。      ※  忠義の屋敷にたどり着く頃には、だいぶ夜も更けていた。  月が雲に隠れて、一層暗くなる。  晴明は屋敷の門を叩いて声をかけた。 「ごめん。陰陽師の安倍晴明でござる。忠義どのに呼ばれて参った」  しかし屋敷はしんと静まり返って返事はない。 「ごめん。安倍晴明でござる。誰かおらぬか」  さらに声をかける。  屋敷の中は、外からではわかりにくいがどうも明かりひとつ点いていないらしい。 「忠義どの、安倍晴明でござる。勝手に門を開けるが、よろしいか?」  反応がないため、晴明は門の取っ手に手をかけた。  と。  次の瞬間、ぎいと音を立てて門が開いた。  出てきたのは屋敷の使用人ではなく、晴明を呼びつけた忠義本人であった。 「おお、忠義どの」 「安倍晴明どのか……? よくぞ参られた」  その顔面は蒼白で、何かに怯えきった表情をしていた。 「忠義どの自らお出迎えとは。恐れ入る」 「来てもらった立場ですからな。ささ、どうぞ」  忠義は辺りを伺うような仕草をしたのち、晴明たちを中に招き入れた。  すぐに敷地内に入る晴明と従者。  忠義はそれを確認して、門を閉じた。 「して、夜な夜な現れる妖というのは?」  忠義に案内されて歩きながら晴明が尋ねる。  忠義は灯りもつけず、暗闇の中をすたすたと先導しながら答えた。 「実は厄介な鬼が現れましてな」 「鬼ですか?」 「はい、鬼です」 「それはどのような?」 「言葉で伝えますよりかは、その目で見た方が早いかと……」  その言葉が言い終わるか言い終らぬかのうちに、晴明の懐に潜り込んでいた子狐がぴょんと飛び出し、忠義の足に噛みついた。 「あなや!」  足を噛まれた忠義が悲鳴を挙げた。  まさに一瞬の出来事だった。 「忠義どの!」  晴明が駆け寄ろうとした刹那、大きな爪がその進行を止めた。  忠義の右腕が、鬼の腕となって晴明を襲ったのである。  晴明は慌ててそれを回避した。  目の前では、忠義が醜悪な鬼へと変化しようとしていた。 「貴様はッ!?」  晴明が声をあげる。  隣で見ていた従者も「ひいっ」と叫んだ。 「まさか正体を見破られるとはなぁ……」  忠義に化けていた鬼は、足に噛みついている子狐を恨めしそうに睨んだ。 「もう少しで京で有名な陰陽師の安倍晴明を騙くらかして喰えるところだったものを。この薄汚い子狐のせいで台無しだわ!」  言いながら、足に噛みつく子狐を蹴り飛ばす。  子狐は「きゃう!」と悲鳴をあげて、近くの塀にぶつかった。 「ああ!」  従者が叫ぶ。  晴明が慌てて子狐のもとに駆け寄った。 「おい、しっかりしろ!」 「き、きゅう……」  子狐は苦しげな表情をしていたが、幸い命に別状はないようだった。  ほっと安堵する晴明。  従者もその隣で胸をなで下ろした。 「おぬしのおかげで助かった。よく見破ったな」  晴明が頭をなでてやると、子狐は嬉しそうに「きゅう」と鳴いた。  その背後では鬼がゆっくりと忍び寄ってきていた。 「ちいっ、死ななんだか。まあよい。晴明、貴様を喰ったあとゆっくり始末してやろう」  言うなり、鋭い爪を振り上げる。  しかし鬼は爪を振り上げたままぴくりとも動けなくなった。  振り向いた晴明が、瞬時に袖口に隠していた護符を鬼の身体に貼りつけたからである。 「う……動けぬ……」 「残念だったな。正体を現した時点でお前の負けだ」  言うなり、刀印(人差し指と中指を伸ばす印)を結びながら鬼の額にとんと打ち付けた。  瞬間、鬼の額から光がわき起こった。 「ひいいっ!」 「もう復活することのない、永遠の光の中に閉じ込めてやる」  直後、鬼は阿鼻叫喚の声を上げながら光に包まれて消えていった。  あとに残されたのは、忠義が着ていたであろうボロボロになった衣服だけであった。  晴明はすぐさま振り返ると、子狐のもとに跪き、抱きかかえた。 「おい、しっかりせい。鬼は退治したぞ。おぬしのおかげだ」 「きゅう……」  苦しげな表情を浮かべながらも満足そうな顔をする子狐。  晴明はそんな子狐を優しく抱きしめたのだった。  その後、忠義の屋敷では幾人もの人骨が発見された。  すべて鬼に喰われた者たちで、忠義らしき人骨も残されていた。  それらを晴明と従者は一つ一つ集め、丁寧に埋葬し、供養する頃には東から陽が昇り始めていた。      ※  それから数日後。  子狐はまた元気を取り戻し、屋敷の中で晴明とともに暮らすことになった。  相も変わらず蹴鞠に抱きついてころころと転がっている。  それを晴明はにこやかな表情で見つめていた。
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