1/2
14人が本棚に入れています
本棚に追加
/13ページ

 想像以上に入口の扉を勢いよく開けてしまったのかもしれない。ドアベルが激しく鳴っていたから。いつもは綺麗に響くベルの音が今日は嵐のようにけたたましい。  俯いていたけれど、濡れて束になった髪の隙間からコーヒーカップを磨いていた優月兄さんが顔を上げたのが見えた。ゴシック建築みたいな雰囲気のある店内には客はいないようだった。  すごく寒い。 「おかえりノエル……」  いつものように声をかけてきた優月兄さんは続く言葉を止めて、少し驚いたように目を見開いた。そりゃそうだよね。空の晴れ間とは裏腹に、全身びしょ濡れなんだから。  普通だったらなんで傘を差さなかったのとか、どうしたのその格好とか訊ねてくるんだろうけど、優月兄さんはそんな野暮なことは聞かないで、いつもみたいに柔らかく笑って、寒いでしょうタオルを持ってくるねと言うだけだった。  それで……いつもだったらありがとうって素直に言えるのに、なんだか今はそんな気分じゃなくて、できれば誰とも口をききたくなかった。というか、余計なお世話だってイライラした。誰にも会いたくない。誰にも見られたくない。誰にも存在していると思われたくなかった。 「いらない」  一言そう言って、真っ直ぐ階段のあるほうへ歩いていった。 「そう……温かいものでもいれようか?」  放っておいてほしい。 「いらない」 「でも風邪を引いてしまったら……」 「いらないって言ってんだろ!」  言ってしまったあとではっとした。  兄さんがとても驚いたような顔をする。でもそのあとすぐにまるでさっきの表情がなかったことのように思えるくらい一瞬で表情を変えて、微笑みながら分かった、って頷いたんだった。  なんかそれにもイライラしてしまった。馬鹿にされたような気分になってしまって、なにも言わないで階段を上って自分の部屋に飛び込んだ。  鞄を床に放り投げて濡れている制服も気にしないで、木製のちょっと古めかしいベッドにダイブする。ベッドが軋んで、聞き慣れた音を立てた。  頬に布団の温もりが心地よくて、さっきまで落ち着いていたかもしれない涙が、また勝手に溢れてくるんだった。そしたら胸に漣が起こって欠けた青い人に言われた酷い言葉とか、酷い格好とか、兄さんに言ってしまった酷い言葉とかが、まるで海の底から生まれる火傷しそうな熱いあぶくみたいに沸々と浮き上がって、嗚咽まで漏れ始めた。  枕に勢いよく顔を押しつけて流れる涙を必死で抑えようとしたけれど暖簾に腕押しするように馬鹿みたいにまるで無意味だった。その無意味さときたらあるいは満場一致でそれは無意味ですねと活動内容が謎の科学者とか偉い人とかいろんなことを自分にいいように決めている人とかに反論の余地なく結論付けられるほどだったと思う。なにをどうしたって涙は止まらなかった。悲しいから泣いているのか泣いているから悲しいのかだんだんよく分からなくなってくる。頭のてっぺんと眉間の間ががんがんしたし鼻の奥が渋柿を食べた時みたいに痛んだ。  気味悪がらせてごめんって謝ったけど、やっぱり気持ち悪いって思われていたのは端的に言ってショックだったし、気持ち悪がられていた自分にもがっかりだった。あんまり酷いよ。謝ったけど、そんなすぐに立ち直れないよ。  どこの高校なのかとか、なんでここにいるのとか、そんな踏み入ったことをたくさん聞きたかったのに、ほんとおかしい、名前すら聞けなかった。もう会わないほうがいい。悲しくなる。  頭上になにか落ちてきた。ふわっとした触感だった。顔を上げたら明暗と涙のせいで目がしばしばする。ぼろぼろの三十五センチくらいある黒うさぎのぬいぐるみだった。ビリジアンのリボン帯と同じ色のポシェットを斜め掛けしている。  俺は俯せていた体を起こして、ベッドの上に座り込んだ。黒うさぎを掴む。こいつとは物心つく前から一緒にいる。話しかけてもなにも言わない。顔のわりにクールなやつ……耳を掴んで、壁にぶん投げたくなった……けどできなくて、ぼーっと眺めていた。  ポシェットが目について、ボタンを外して、中を見た。五百円玉が入ってる……小さい頃から入っているんだった。兄さんが入れてくれた。小さい時俺はこの黒うさぎをどこにでも一緒に連れて行っていたから、道に迷ったり、お腹が空いたり、なにか必要になったら使いなさいって、お守りみたいに入れてくれてた……優月兄さん。  そっとうさぎ抱きしめて再びベッドに倒れ込む。濡れた制服は酷く冷たかったのに、黒うさぎは温かい。また涙が出てきた。兄さんにも俺は、なんて酷いことを言ってしまったんだろう。本当に俺は最低だ。最低最悪のゴミみたいなものだ。  兄さんきっと酷く悲しんでる。酷いことを言われた時の気持ちを、ほんの小一時間前に、とても鮮明に感じて深く傷ついたばかりなのに、なんで自分がそんな気持ちにさせてしまう立場になってしまったんだろう。自分のことしか考えてないなんて、もう俺は子どもじゃないのに。なんて酷いことを言ってしまったんだろう。  謝りにいかないと、今すぐベッドから起き上がって、扉を開けて、階段を下って、兄さんに謝らないと、謝って、思ったことを、ちゃんと伝えないと……。  ハッと飛び起きたら、部屋が真っ暗になっていた。濡れた制服のまま眠ってしまっていたらしい。ぬいぐるみを抱いて寝たのなんていつぶりだよ。ぬいぐるみ抱えて寝る高校生男子って……明らかに酷い絵面だな……悪寒がする。扉の隙間から、廊下の光が零れている。  兄さんに謝りに行かないと……!  涙は止まってた。少しすっきりしてる。声はまだ出してないけど、そこまで鼻も詰まってない。大丈夫。目は腫れてるかもしれないけどこの際もうどうでもいい。  もう寝てしまったかな、まだ一階にいるかな、と焦る思いを抱えながらなりふり構わず飛び出した。  そうしたら階段の隙間から下のほうに灯りが見える。階段を一気に下りた。兄さんはカウンターにはいない。どこにいるんだろう? 灯りの先を目で追うと、窓際のテーブルに座っていた。肩にえんじと茶色のチェック柄のブランケットをかけている。なんの気なしに使っているように見せているけれど、すごく大切にしているのを知ってる。だってそのブランケットはカケルが兄さんに贈ったやつだから。  結構な音を立てたはずなのに、兄さんは俺に気付いていないようだった。右手には読みかけの文庫本を持っているけれど、そこに目は向けられていない。いつもは結んでいる髪を下ろして、左手で頬杖を突きながら、窓の外を見ているみたいだった。なんだかおとぎ話に出てきそうな光景に一瞬息を呑む。階段のないすごく高い塔に幽閉されている人の話。そういう話をなにかで読んだ気がする。それを思い出した。  普段とは裏腹に後ろ姿は寂しそうでなんだかよく分からないけどそれと同じくらいすごく艶っぽい色をしていた。いつも笑顔の裏に隠れて見えない兄さんを見ているみたいだ。空気を切り裂くのが躊躇われるくらいそこは静寂に満ちている。  なにを考えているんだろう。 「……兄さん」  静寂に勢いを失われた静かな声で呼んだ。  兄さんは静かに振り向く。まるでたった今この空間にいる自分以外の存在を知ったみたいだった。  腰の上くらいまである綺麗な髪がはらりと靡く。 「……ノエル」  兄さんの目はぼんやりしていた。少し疲れているみたいな感じもした。昼間の活気はなくて、夜のまったりした大人な雰囲気が見え隠れしている。騎一が見たら発狂して死ぬかもしれない。  文庫本を躊躇わず閉じていつもと同じように微笑んでくれる兄さんに、俺は親とはぐれた子犬みたいな気持ちになってたまらず駆け寄った。優しいお茶の匂いがする。  どうしたの、って兄さんが語りかける前に、ごめんなさい、が口を突いて出てきた。 「ごめんなさい、さっき、酷いこと言ってごめんなさい」  椅子に座っている兄さんの手を取って、うるさい声で言った。兄さんの手は温かかった。  優月兄さんはのんびりと首を横に振る。その落ち着きが余計俺を後悔させた。 「気にしてないよ。僕こそごめんね」 「ほんとはタオルもいるんだったの、温かいものも欲しかったの、でもあんなこと言ってごめん、あの……俺……」  俺は言おうと思った、今日の昼間にあったとても悲しいこと……でもどう言ったらいいか分からなくてできれば触れたくないこと。だって俺、このままじゃ理由もないのに兄さんを傷つけてしまったみたい。言い訳って言われたって仕方ない。  意を決して言おうとした瞬間、兄さんの手は俺の手から離れていってそのまま俺の両の頬を包み込んだ。眼差しは落ち着いていたけれど、真っ直ぐで真剣だった。 「言いたくないことは言わなくてもいい」  どきっとした。流している髪も相まってなんだか違う人みたい。少し母さんを思い出してしまった。似ているわけじゃないのに。  すごくもじもじする。そんな自分が嫌だ。 「冷たい……お腹は空いてる?」  押し黙っていると、俺の頬に手を添えている兄さんが静かに聞いてくる。いつもの調子だ。
/13ページ

最初のコメントを投稿しよう!