tearful

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tearful

 ポン、ポン、ポン、ポン。一定のリズムを刻む木魚の音に、何を言ってるか分からない男の歌のような不思議な声。ああ、念仏か、と結太(ゆうた)は気づいた。  花に囲まれた遺影に目をやると、そこには自分が映っていた。 (……って、はっ?! 俺?!)  目を擦り、何度見てもそこに自分の顔がある。覗き込んだ棺の中に自分の姿を見つけ愕然とした。では自分は死んだのか。しかし記憶が無い。事故なのか病気なのか。 (これが漫画とか映画なら変な死神とか天使みたいなのが出てきて、なんか色々教えてくれるんだけどなぁ…)  現実はそうでは無いらしい。そもそもこれは現実なのだろうか。タチの悪い夢では無いのだろうか。  葬儀場をぐるりと見渡した。泣きじゃくる家族と友人。同級生たちがみんなで来たのだろう。結太の高校の制服の列が出来ている。中学の同級生も数名いた。誰も今ここに立っている自分には気づかない。 (あ…心夏(こなつ)…)  高野(たかの)心夏は焼香を終えたのか、用意された席に座っていた。隣には彼女の姉と母親もいる。 「高野さんって、佐山くんとは小学校からの同級生って言ってたっけ」 「ああ、なんか家族ぐるみの付き合いがあるって聞いたことあるよ」 「隣ですごく泣いているの、高野さんのお姉さんかな?」 「高野さんって、前からクールだなぁとは思ってたけど、こんな時でも泣いたりしないんだね」  焼香の列に並ぶ女子たちの会話が耳に入った。 (…本当に一滴も涙流さないのな)  背筋をしゃんと伸ばし、真っ直ぐ遺影を見つめている。  結太は昔、心夏に言った。『いつか絶対泣かせてやる』と。  *  箒で野球をするのは男子の嗜み、ではないのだが、ついついやりたくなってしまうのだ。投げられた紙製ボール(ただ丸めただけ)が結太目掛けて飛んでくる。 「もらった!」  しかし紙製ボールはすんでのところでバチンという音ともに落下、振りかぶった箒はパシンと誰かに掴まれた。落ちたボールに目をやると、真上からぐしゃりと踏み潰す足があった。 「その遊びいつまでやるつもり? 掃除が進まないからまずは先にあんたたちをゴミ箱行きにしてあげようか?」  ゆっくり顔を上げると眉間に皺を寄せ思い切り結太を睨む心夏がいた。ボールは心夏が持っているちりとりで叩き落としたらしい。  ピッチャー役の男子は「やべ」とそそくさ掃除に戻った。 「今いけそうだったのに邪魔すんなよ心夏!」  バチン、とちりとりが箒を持つ結太の手を叩き、痛っ、と手が緩んだ瞬間箒が奪われた。 「遊びたいならやることやってからにして。じゃなきゃ粗大ゴミにあんたぶち込む」  冷たい視線を投げかけ、心夏は再び掃除に戻った。 「お前いつか絶対泣かしてやるからな」 「それもう聞き飽きた」  これが、小学校時代の日常風景だった。  心夏は勉強も運動もできる優等生だ。教師の手を煩わせてばかりの結太とは真逆で、むしろ、問題行動を起こす生徒を率先して取り締まるため、教師からしたら心夏は非常に有難い存在だっただろう。  どんなに喧嘩しても他の女子のように心夏は一切涙を見せない。その姿が女子からは『かっこいい』と慕われ、男子からは『顔は可愛いんだけどあんま笑わないし怖ぇんだよな』と恐れられていた。  元々はお互いの二歳上の姉同士が仲が良かったことがきっかけで、心夏とは幼稚園の頃から家族ぐるみでの付き合いがあった。昔はもう少し仲良くしていた気がする。恐らく、結太にとって初めて手を繋いで歩いた女子が心夏だ。  同じ目線だったはずの心夏が、女子特有の成長の早さで自分を見下ろすようになった辺りからだろうか。隣に立つのが悔しいやら恥ずかしいやらで、気づけば心夏とは喧嘩ばかりになった。  残念ながら取っ組み合いでは体格差で勝てず、口喧嘩では頭脳で勝てず、その度に悔しさをさらに募らせ「いつか絶対泣かしてやる」と捨て台詞のように吐いた。  思春期の幼馴染の男女が昔と変わらず仲がいいまま、というのは漫画の世界だけだろう。中学に上がり、クラスが端と端になれば一日すれ違わずに終わることもあったし、すれ違っても特に話もせず過ごすこともあった。話せないくらいなら喧嘩をしていた頃の方がマシだと結太は思った。  中一の秋、廊下ですれ違った心夏と自分の身長差があまりなくなったことに気づいた。そして、中一二回目の身体測定の後、結太は意を決して一年五組の教室にすっ飛んで行った。 「心夏、身長いくつだ!」  教室の窓際、心夏を見つけすぐさま名指しした。 「え、何いきなり」 「身長いくつだったか聞いてんだよ」  自分の教室ではないがズカズカと入り、目を丸くする心夏の元に駆け寄った。 「…160センチちょうどだけど」  結太は自分の身体測定の結果を心夏に見せた。 「勝った、161センチ!」  心夏は目をぱちくりさせた。 「…え、だから何?」 「だから何って、お前なんかもっとないのかよ。悔しいとかムカつくとか」 「別に。だってあんた男だし、体質とか健康問題でもない限り基本的に男は女よりでかくなるじゃない」 「そこは悔しがれよ! 俺が何年悔しい想いをし続けたと思ってるんだよ!」  そう叫ぶと、心夏はきょとんと目を丸くし、それからぷっと吹き出した。 「あんた、ずっと悔しがってたの?」  -笑った。  一瞬惚けたが、はっと我に返って叫んだ。 「悪いか! そのうちお前より10センチ20センチ高くなって見下ろしてやっからな! 首洗って待っとけよ!」  逃げるように走り去る間、結太の脳内ではぷっと吹き出した心夏の顔が再生され続けた。  心夏との距離は近くはないけど遠すぎない。そんな距離をどうにかこうにか保った。そのほとんどが定期テストやスポーツテストなどで結太が勝負を挑むような形だったが、心夏も無視はしなかった。  あまり笑わない心夏が、自分に対して(呆れたようにだが)ほんの少し笑みを浮かべるのが、少し誇らしかった。  中学を卒業する頃には、心夏との身長差は15センチになり、頭脳では相変わらず勝てなかったが、心夏が自分を見上げる度に、小さかった頃の喧嘩ばかりの馬鹿な自分を殴りに行きたくなった。  家から一番近い平均的な偏差値の高校を選んだ結果、心夏と再び同じ学校に通えることになった。成績優秀な彼女なら偏差値の高いところに行くだろうと思っていたので、結太からすれば嬉しい誤算だ。さらに小学校以来久しぶりにクラスが一緒になるという奇跡も起きた。 「佐山って高野さんと付き合ってんの?」  そんな風に言われたのは衣替えで半袖を着るようになった頃。 「高野さん物静かで男とはあんま話さないけど、お前とは結構話してるよな」 「あー、俺は幼なじみっつーか、古い付き合いなんだよ。俺らの姉ちゃん同士が仲良くてさ」 「ふーん…」  つまらなそうに言うが、それはどういう反応だ。と気になって結太も尋ねた。 「…気になるの?」 「んー…そりゃちょっと愛想が足りないなぁとは思うけど、でも可愛いし今どき珍しい大和撫子っぽくていいじゃん」 「大和撫子ぉ? 心夏がぁ?」  結太は思わず吹き出した。 「ないないない。今は大人しいけど、小学生の時はどっちかと言えば番長だぞ。腕っ節強くて泣かされた男の数しれず。俺も掃除サボる度に『粗大ゴミにしてやろうか』っつってちりとりで叩かれたり、箒ではかれたり、大和撫子なんか程遠い可愛げのないやつだよ」 「悪かったわね、可愛げなくて」  振り返ると真後ろに心夏が立っていた。 「お前いつからそこに」 「番長のくだりから丸々」  ジトっとした目でこちらを睨むように見たかと思うと、すっと両手が伸びてきた。心夏の両手が結太の頬に触れ、次の瞬間、思い切り引っ張られた。 「いててていひゃいいひゃい離せ」 「別にあんたに可愛いと思われなくても困んないけど」  じーっと顔を引っ張ったまま結太の顔を見、心夏はぷっと吹き出した。 「ブッサイク」  そう一言呟くと、手を離して心夏はどこかへ行ってしまった。 「うわぁー…笑うとほんと可愛いな」  友人の呟きが耳に入った。そうだろそうだろ、と痛みの残る両頬を擦りながら声には出さず同意した。 (掴まれたのはほっぺたなんだけどな…)  心臓の方がよほど強く握られたような気分だった。 *  あまりにも自分が死んだという実感が無さすぎ、これが夢なのではないかと何度も何度も自分の顔を叩いたり捻ってみたのだが、痛くも痒くもなかった。ああそうか、死んでるなら痛覚もクソもないのでは? と一通りつねった後に思い至った。  ただひとつわかった。どうやら結太は心夏から離れられないらしい。通夜が終わり、色々調べようと家族についていこうとしたが、何か強い引力のようなものが働き、心夏に引き寄せられてしまった。そして心夏が葬儀場をあとにすれば、結太の意思関係なく一定の距離を保ちながら離れられず家まで来てしまった。  翌日の葬儀も心夏たちは参列した為、結太は自分の葬儀、そして自分の骨を見るという奇妙な体験をした。 「まさか生まれて初めて拾った骨が私よりも年下の男の子になるとは思わなかったな」  葬儀全てが終わり、高野家のリビングで脱力したようにソファに倒れ込んだ心夏の姉がぼやいた。 「うちはどっちのおじいちゃんおばあちゃんもまだまだ元気だからねぇ。お母さんも自分の親よりも先に自分の子のように可愛がってた子が先に逝っちゃうとは思わなかったわ」  二人の会話を心夏は黙って聞いていたが、「着替えてくる」と言って恐らく自分の部屋に向かった。家の中なら心夏から離れたことにはならないらしい。前日に検証済みだ。さすがに女子の部屋に無断で入るのは気が引けたので助かった。 「…心夏、大丈夫かな」 「心春(みはる)みたいに思い切り泣けたらよかったんでしょうけど、あの子感情表に出すの苦手だものね」 「幼稚園くらいの時からケガしても大声上げて泣いたりとかしなかったもんね」 「あら、それはあなたもよ。姉妹よく似てるわね」 「痛みに対する耐性が強くできてんのよ。でも、私は精神面はそんな鈍くないわ。心夏はそっちも鈍そうだけど…」  *  学校に行く心夏に引っ張られるようにやってきた。生徒たちが口々にしていた噂話をまとめると、どうやら結太は交通事故で首の骨を折り即死だったらしい。凍結した道でスリップした車が結太に突っ込んできたそうだ。思わず首を抑えた。死んだ記憶が無いのは即死だったからか、と納得した。  次なる問題は、結太はいつまで心夏にくっついていればいいのかだ。物語のセオリーで言えば、結太は心夏に対して強い未練があるのだろう。しかし、漫画ならば心夏に結太の姿が見えたりするのだろうが、現実はそう甘くない。  結太の死後、一ヶ月。心夏は普通に過ごしていた。時折結太のいたはずの席を見ていたが、特に何かするでもなく、ただ普通に過ごしていた。 季節は冬の終わり、もうすぐ高校一年目が終わろうとしている頃だった。 「高野、相田、ちょっといいか」  終業式前日、ホームルーム終わりに心夏が担任教師の星野に呼ばれた。相田は中学からの結太の友人だ。 「悪いんだけど…二人で佐山の荷物を佐山の家に届けて欲しいんだ」 「俺たちで?」 「ああ、確か家近いだろ? 以前、色んな手続があるから親御さんが学校来てな。本当はその時に言おうかと思ったんだが…憔悴しきってて荷物持って帰ってくれ、なんて言えなかったんだ。それならいっそ、もうすぐ新学期になるし、終業式まで預かっておこうと思ったんだ」 「…あいつ、全部置き勉してたと思うんですけど。俺ら二人じゃ自分の荷物もあるのに持ちきれないっすよ」  相田の言葉に心夏も首を縦に振った。 「安心しろ、そこは俺が近くまで車を出す」 「え、なら俺ら必要ありますか?」 「大いにある。俺一人じゃしんどい。色々」 「えー…何情けないこと言ってんすか」  はぁー、と星野はため息をついた。 「お前ら二人に頼むのも正直どうかとは思ったんだよ。…思ったんだが、多分俺よりも適任なんだ。俺よりもお前らの方が佐山といた時間は長いだろう? こういう時はそういうやつの方がいいんだよ」  *  翌日、結太の全ての荷物を星野の車に乗せ、心夏と相田は結太の家にやってきた。 「先生、わざわざありがとうございます。心夏ちゃんも相田くんもありがとう」  久しぶりに見た母はやつれて顔色も悪くなっていた。しかし、心夏たちを見て和らいだ表情に嘘はなさそうだった。  星野は学校に戻らないといけないからと、挨拶を済ませるとさっさといなくなった。  心夏たちは結太の部屋まで荷物を運んだ。あまりの多さに呆れられたが、母はなんだか楽しそうだった。 「……久しぶりに入りました。結太の部屋」 「そうね。心夏ちゃん、小学校までは来てくれてたけど、中学生になったらクラスも離れちゃったし、お年頃だから仕方ないわよねって思ってたの」  母は淋しそうに言った。 「それにあの子も口にはしなかったけど、心夏ちゃんが来なくなったこと淋しがってたのよ。ね、相田くん」 「…俺に聞かんでください」  相田は目を逸らした。 「…おばさん、ご迷惑じゃなかったらもう少しここにいてもいいですか?」 「え?」  母が目を丸くした。 「あの、いえ…ただ……懐かしくて…。あ、物色したりとかはしないので」 「あら、いいわよ好きに見て。見られて困るようなものはちゃんと隠しているんだと思うけど…そんなものを処分もせずにさっさと逝ってしまったあの子が悪いんだもの。宝探しと思って好きに見てちょうだい。母の私が許すわ」  おい待てコラ母さん!と叫んでも伝わらない。しかし、確かに言われてみればそうだ。 「あー…じゃあ俺も残っていいですか? あいつに貸しっぱなしだった漫画とかあるんで」 「ええ、もちろんよ。気の済むまでいてちょうだい」  母が部屋から出ていくと、心夏は久しぶりであるにも関わらず、勝手知ったるといったふうに、押し入れを開けて折りたたみテーブルを取り出した。 「何してんの?」 「昔よく一緒に勉強してたのよ。特に夏休みの宿題、私はお目付け役ね。私が来た時はこれを出してたのよ。…まだあったのね」  心夏は結太のベット脇にあったクッションを敷いて、テーブルの下に足を伸ばして座った。相田はそれを見て、テーブル向かいではなく、横に腰を下ろした。 「…そうそう。結太もそこに座ってた」 「え?」 「私、女の子座りとか横座り苦手でいつも足を伸ばしてたから、結太も勉強するときそこ座ってた。『お前の足邪魔』って、自分はあぐらかいてたの」  ふっ、と心夏の口元が緩んだ。 笑う心夏とまともに目が合った相田は硬直し、それが溶けると顔を逸らして頭をかいた。 「あー……あのさ、聞きたいことあんだけど」 「何?」 「あ、先に言うけど嫌なら答えなくてもいいからな」  はぁ、と心夏は首を傾げた。 「高野は佐山のこと好きなのか?」  心夏の大きな目がさらに大きく見開かれた。結太はもう止まったはずの心臓がドキッと動いた気がした。 「あ、いや、高野って昔からあんまり感情表現得意じゃないだろう? 仲良い女子以外では結太といるときだけはこう…表情柔らかかったからさ。どうなのかなと…」 「恋愛としての好きかどうかって話?」 「うん」 「…さぁ、考えたことなかったわ」  はいでもいいえでもない解答に、相田は目を丸くした。 「友達とそういう話したりしないの?」 「私の周りには恋に生きているタイプの子がいないから、聞きもしない聞かれもしないわ。だから、考えたことなかった」  相田の何とも言えない表情が、結太に対する同情なのだろうと手に取るようにわかった。 「どっちでもいい」 「え?」 「友情でも恋愛でもどっちでもいい」 「…佐山のこと?」  心夏が頷いた。追い打ちをかけられるようで、結太はガクッと項垂れた。しかし、続きがまだあった。 「大事なことに変わりはないもの。喧嘩ばっかしてたし、いつも勝手に勝負吹っ掛けてきて勝った負けたって騒がれていい迷惑だったけど」 「迷惑だったの」 「それでも大事な存在だったわ」  噛み締めるようにもう一度、「大事なのよ…今でも」と空を見つめて呟いた。  帰り際、心夏は「また遊びに来てもいいですか?」と母に尋ねた。母は涙ぐみながらも「もちろんよ」と微笑んだ。  結太の家をあとにし、心夏は自分の荷物を持って帰路に着いた。  途中、にわか雨が降り、雨量の多さに慌てて近くの公園の東屋に避難した。昔、よく心夏と遊んだ公園だ。携帯が無事なことを確認すると電話をかけた。 「ああ、お姉ちゃん? 家にいるならさくら公園まで傘持ってきてもらえない? さすがにこの雨じゃ怯んじゃって、終業式だったから荷物も多いし。…うん、ありがとう」  ベンチに腰掛け、心夏は姉を待った。公園に心夏以外は誰もいない。誰にも見えない結太しかいない。  雨足は思いのほか強く、三月下旬の雨は少し冷たいのか、心夏は腕をさすった。  結太と心夏、二人の姉と四人で遊んだ日々を思い出す。ちらちらと桜の蕾が膨らんでいるのが目に入る。春はもうすぐだ。 「…結太」  不意に名を呼ばれ、結太はドキッとした。姿が見えるようにでもなったのかと思ったが、ぼーっと前を見つめている辺りそうではないらしい。 「結太……」  もう一度、心夏は名前を口にした。 「どこ行っちゃったのよ、結太…。返事してよ…」  結太の死から一ヶ月。ずっと心夏のそばにいた。この一ヶ月、一切泣かなかった心夏の目からポロポロと涙が溢れ出た。初めて見る心夏の涙に、どうしようもないほどの高揚感を得た。『いつか泣かせてやる』と言ってきた。全然泣かない心夏の涙を許せる場所になりたかった。 「…やっと、お前が泣くところ見れた」  なんて汚いんだろう。なんて醜いんだろう。けれど、そういうものだろう。好きってそういうことだろう。  結太の目からも涙が出た。そして、急に身体が光出した。  ―ああ、これはあれだ。もう逝くのか。  結太の未練は心夏だった。『いつか絶対泣かせてやる』。もう十分だということだろう。 「…でも、これは俺が勝ったことになるのかなぁ。お前が泣いても俺は慰められない。これから先出会う誰かと付き合って、結婚することもあるかもしれない。…あれ、やっぱ俺の負けなのかな。…でも、まぁいっか」  涙を拭わず垂れ流す心夏の顔に近づき、唇はこの辺りかなと自分のそれを近づけた。触れ合った感触はない。 「…ざまぁみろ。お前のファーストキスは俺のもんだ」  それを最後に、結太は光に包まれ姿を消した。  * 「心夏ー、お待たせ!」  自分の傘を持った姉がやってきた。持ってきたタオルで濡れた頭を強引に拭かれる。 「お姉ちゃん、私負けちゃった」 「負けた? 何に?」 「結太に」  は?と姉は首を傾げた。 「『いつか絶対泣かせてやる』ってずっと言ってたから、それなら私は絶対に泣くもんかって思ってたの。…でも、負けちゃった」  力なく心夏が言うと、姉は言った。 「…何言ってんの。今日は雨よ? 泣いたかどうかなんてわかんないし、結太も見てない。だからこの勝負は引き分け。そうね…勝敗は来世に持ち越しよ」 「……うん。そうだね、それがいい」  ―またね、結太。また喧嘩でも勝負でもしよう。  心夏は一度、公園を見渡した。ちくりと痛む胸をおさえながら、姉と二人並んで家に帰った。
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