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祭囃子の響く町を、姫神は町を見下ろせる小高い木の上からぼんやりと眺めていた。
一人木の上に座り込む彼女に話しかける者はもう、誰もいない。生まれてからずっと見守ってきた祭りの喧騒を眩しそうに見つめて、姫神はただ静かに時を待ち続けた。
「待たせたの、兄上」
蛇男との出来事から一週間後の、祭り当日。喧騒もすっかり途絶えた夜更けに姫神は社へと戻った。
「別に対して待ってもいねえよ」
相変わらず乱暴な口調で出迎えた兄神を見て姫神は驚愕した。
「あ、兄上⁉ どうしたのじゃ、その髪は⁉」
前回までは毛玉のように広がっていた兄神の赤髪が、結ぶことも出来ないくらいに短く切り揃えられていたのだ。
短くなった髪の代わりに兄神の体を覆っているのは大切そうに抱えられたベールだった。裏がうっすらと透けて見える繊細なそれは光も当たらないのにキラキラと輝いていた。
「俺の神気をたっぷり蓄えた髪で織り上げたベールだ。少しは神力の足しになるだろ」
そう言って兄神は花嫁に被せるように恭しくベールを姫神の頭に乗せた。
「絶対無くすなよ」
「無くすわけがなかろう」
涙ぐみながら姫神はベールを握る。薄紅色のベールからは兄神の神気がじわりとにじみ出ていて、まるで兄神に抱きしめられているようだった。
「ありがとう」
二人は照れたように笑いあって手を繋いだ。
「準備は出来てるか?」
「当然じゃ」
迷いなく告げる姫神を、確かめるように兄神は見つめた。本当に後悔はないのか。これでよかったのかと尋ねるように。
「お前はそれを選んだのか」
囁かれた言葉が風となったかのように、二人の姿が揺らいだ。以前兄神が天界へと帰った時と同じ揺らぎは赤髪の代わりに姫神のベールによって隠され、消えていった。
移動した先は何もない真っ白な空間だった。壁も天井も分からない、距離感すらおかしくなるような空間の先にぽつりと鳥居がある。
それが淀みの入り口だった。二人は言葉を発する事なく静かに繋いでいた手を離した。
衣ずれの音さえ躊躇われるような静寂の中、姫神は兄神から離れ鳥居に向かって歩き出す。
鳥居の前まで辿り着くと姫神は鳥居を見上げた。本来なら背後の白が見えているはずの鳥居の向こうはどろりとした闇が渦巻く空間となっている。
この中へ入れば千年の間は戻ってくる事が出来ない。
分かっていた筈の現実が、生まれてから今までずっと待っていたお役目の入り口が、目の前にそびえ立っていた。
姫神は背後にいる筈の兄神を振り返りたくなる気持ちに蓋をして、闇の中へ踏み出した。
途端にどろりと纏わりついてきた淀みを振り払うように神気を放出すると、ぼんやりとした光が姫神を包み込んだ。しかしその光量は普段の十分の一にも満たない微弱なものだった。
これからの千年を思い放出を最低限にしているのだ。神気が尽きて死んでしまわないように。
姫神は奥へ奥へと進んでいく。背後の光が届かなくなるくらいに奥へ。淀みと白の空間を繋ぐ鳥居は祭りが終われば消える。どうせ消えるのなら下手に未練を残さないように、光から遠ざかっておきたかった。
そして完全に光が消え己の発する光だけとなった時、姫神は崩れ落ちるようにその場に座り込んだ。
やっと終わった。もう我慢しなくていいのだ。だってもう誰も見ていない。心配させたくなかった兄も、巻き込みたくなかった蛇男もいないのだ。
だから。
「もう…… 泣いても、いいじゃろ……?」
本当は、兄と別れたくなどなかった。本当は、蛇男の言葉の通りに全て投げ出してしまいたかった。役目など捨てて、愛しい兄と好いた男と三人で、穏やかな日々を過ごしたかった。
けれど姫神はそれを実行できるほどに冷酷にはなれなかった。
自らの幸せと下界の人々の幾千幾万の命を天秤にかけることすら馬鹿げている。
だから姫神がその選択肢を選ぶ事は決してない。どれだけ悲しくてもどれだけ苦しくても、決して。
姫神は纏わりつく淀みの中、一人ぼっちで泣いた。泣き顔を隠すように兄のベールに包まって。
「泣くくらいなら一人で行かないで下さいよ、姫神」
姫神の嗚咽だけが響く淀みの中で、聞こえる筈のない声が聞こえた。
姫神はそれを幻聴だと思った。自ら術をかけてまで遠ざけた人がそんなに恋しいのかと。泣くのをやめて耳をそば立ててしまう程に聞きたかったのかと。
そんな姫神の期待通り、居る筈のない人の声は優しい音で姫神の耳を通り抜ける。
「術で眠らせるなんて随分と姑息な手を使ってくれましたね。おかげで色々大変でしたよ」
姫神は彼が本当にそこに居るようだと、ベールに包まったまま目を開けることも顔を上げることもせずに笑った。目を開けてしまえばそこに誰もいない事が分かってしまうから。
「何で兄神みたいな格好をしているんですか。俺が話しかけているんだから顔くらい上げたらどうです?」
兄神のような格好。確かにその通りだ。幻聴の癖に面白い事を言ってくれる、と姫神はクスクスと笑って、目尻の涙を拭う。
「何を笑っているんですか」
「たとえ幻聴でも、其方がいてくれるのなら千年を耐えられるかもしれないと思うての」
思わず答えを返した姫神は失敗したとばかりに口を手で押さえた。話しかけてしまえばこの幻聴は消えてしまうかもしれない。
「千年くらい余裕ですよ、余裕」
そんな姫神の心配を他所に幻聴はのほほんとした口調で返答する。
「というか姫神、貴女俺のこと幻聴だと思っていたのですか?」
呆れたような声に姫神はまた笑った。幻聴以外にあり得ないと。
「取り敢えず顔を上げてくれませんか?」
困り果てた声音で頼み込む幻聴を無視して、姫神はさらに深くベールを被り蹲る。
ああもう、と焦れたように幻聴が響いたと思えば、姫神はふわりと持ち上げられていた。
脇を抱えられ持ち上げられた事に驚いて開いた瞳の先に映ったのは、鮮やかな緑髪。
「蛇男⁉」
「はい、蛇男ですよ」
「幻覚か?」
「いえ、紛う事なく本物です」
信じられない、幻覚に決まっておろうと、姫神は持ち上げられたままペタペタ顔を触る。
「本物ならどうやってここに来た? 祭りが終わるまでは解けないように強力な術をかけたつもりだったのじゃが?」
「兄神に叩き起こされました」
蛇男はひょいと姫神を下ろして手首を見せる。そこには赤いミサンガが巻き付けられていた。
「これは?」
「兄神の髪で編まれたミサンガです。元は同じ神力ですから姫神のベールに染み込んだ神力と共鳴するんですよ」
その反応を追ってここまで来ましたと蛇男は笑った。唖然と蛇男の話を聞いていた姫神は、暫くぺたぺたと髪や腕を触って、その存在を確かめる。
そして突然、蛇男を引っ叩いた。
「其方、本物か!」
「痛いですよ姫神! 暴力はいけません!」
やっと事実を事実として受け止めた姫神は、引っ叩かれた頬を抑えて抗議する蛇男を怒鳴りつける。
「何故こんなところまで来たのじゃ! 死にたいのか其方は⁉」
「別に、自殺しに来たわけじゃないですよ」
分かってないですね姫神は、と蛇男は大げさに嘆いてみせた。そしてやれやれと首を振りながら語る。
「人も神も妖も、どうせいつか死ぬんです。それなら俺は、貴女がいない退屈な世界で長々と生きるよりも貴女がいる暗闇で死にたいと思いました。その為に一年間淀みに潜り込んで耐性をつけてきたんですし」
ああ、それが淀みに潜り続けた本当の理由だったのかと姫神は今更ながら蛇男の真意を理解した。
彼は一年前からずっと準備をしてきたのだ。今日この日の為に。
「それで? 千年後、ここから出たら何をします?」
「死にたいといいつつ生きる気満々じゃな、其方!」
ふざけおってこの阿呆が、と泣き出した姫神の頭を蛇男はそっと撫でた。
「自分勝手ですみません。だけど、俺は貴女と共に生きたかった」
申し訳なさそうに、けれど誇らしそうに、蛇男は姫神に遮られて言えなかった言葉を告げた。
「貴女を愛していますから」
「この、大馬鹿者が!」
ボロボロと涙を流して姫神は蛇男の胸を叩く。蛇男はその手を優しく握って、手の甲に口づけた。
「これから千年、いえその先もずっと。貴女と共に居させてはくれませんか?」
姫神とは比べ物にならないほど弱い神力しか持たない蛇の妖は、神力の光すらろくに纏えていない彼は、それでも共に居たいと願った。
出ることも出来ない淀みの中で、断ることも出来ない状況でそれでも姫神に許しを請うのだ。
「其方はずるい」
「はい」
「こんな所まで強引に追ってきておいて、今更妾の許しを請うのか」
「だって、貴女に望んで貰いたいから」
そう言って蛇男はいたずらっ子のように無邪気に笑った。
「まあ貴女が許さなくても付き纏いますけど」
「阿呆が」
掴まれたままの手を振り払って乱暴に涙をぬぐった姫神は赤く染まった頬を抑えて蛇男を睨みつけた。
「それで? 返事を聞かせてくれませんか?」
そんな姫神を楽しそうに見つめて蛇男は答えを催促する。
「……好きにするがよい」
たっぷりと間をおいて、姫神は捻くれた返事を返した。
赤く染まった頬を隠すようにベールを深く被った姫神をベールごと抱きしめて、蛇男は言った。
「はい、好きにしますね」
それが長い長い二人ぼっちの始まり。その果てで二人がどんな終わりを迎えるのかは、今はまだ分からない。
それでも確かにその瞬間、二人は幸せだった。
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