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「あの大馬鹿者が!」
森から出た姫神は収まらない怒りを抱えて社へと戻っていた。
森からほど近いその社は姫神を奉る場所であり、現在の姫神の住処となっている。
そんな重要な筈の場所を姫神は酷く乱暴に突き進む。
ドタドタとはしたなく足音を響かせて社の最奥の部屋へ向かい、部屋の襖をスパーンと勢いよく開けた。
襖を開けた先は畳敷きの小ぢんまりとした和室だ。どこかほっとするような雰囲気のその部屋の畳には、血溜まりの様な赤が広がっていた。
部屋の雰囲気から浮き出すような赤色はよく見れば血溜まりではなく毛の束のようだ。
部屋中を覆い尽くすように広がる数メートルはあるであろうそれを辿った先、赤毛の中心地は毛糸玉のように盛り上がっている。
「おう、今日はえらく荒れてんな、姫」
近付くのも躊躇われるような毛糸玉の中から野太い男の声が響いて、ずるりずるりと緩慢な動きで姫神の方へ近づいて来た。
「兄上、来ておったのか。暫く見ない間にまた赤い塊と化したのじゃな」
姫神が慣れた手付きで毛糸玉をかき分けると、中から男の顔が現れた。
つり上がった眉尻と三白眼がきつそうな印象を与えるものの、十分にイケメンと呼べるであろう端正な顔立ちである。
しかし下手に顔がいいだけに毛糸玉のような赤毛に埋もれた姿が笑いを誘う。
「全く、兄上は容姿に気を配らなさすぎじゃ。妾が下界に降りてから更に酷くなったのではないか?」
「男が見た目を気にしてどうすんだよ」
男はぶっきらぼうに答えつつ軽く指を鳴らした。赤毛に埋もれた指がパチリと鈍く音を立てると、それまで異様な程に広がっていた赤毛がしゅるりと一つに集まり束となる。
「おら、これでいいか」
束になった赤毛は男の頭上を彩るポニーテールとして背後に流され、埋もれていた黒いジャージを纏った身体が露わになった。
「兄上はきちんと身だしなみを整えれば男前なんじゃがのう」
姫神は至極残念そうに男の赤毛を指でくるくると絡め取る。
ポニーテールにしてもなお直立状態で畳と接するほどの長さの赤毛は男の地肌を引っ張ることなく、するりと姫神の手元に収まっていた。
「これすると頭が重てえんだよ。首も凝るしな」
嫌そうに言って首をゴキリと鳴らした男は姫神へと視線を向ける。
「で、今日はどうした」
「そうじゃそうじゃ、聞いておくれ兄上!」
姫神は毛糸玉のような兄の姿に気を取られすっかり忘れていた蛇男との出来事を思い出し、勢いよく話し出した。
「……という訳なのじゃ」
「蛇野郎が自殺未遂、なあ」
姫神の兄、兄神は胡乱げな表情で姫神の話を否定する。
「勘違いだろ。 あいつは自殺なんかするような玉じゃねえ」
「淀みなんぞに入り込むなどという行為に自殺以外のどんな意味があるというのじゃ!」
ジタバタと無意味に手足を振って騒ぐ姫神に兄神は呆れた顔で答えた。
「ばぁか、そんなもん決まり切ってんじゃねえか」
「兄上には理由が分かるのか?」
何を当たり前のことを、といった体の兄神に姫神が理由を尋ねる。
しかし兄神は何かに気づいた様子で少し考え込んでから「俺からは教えられねえわ」と言い出した。
「これは蛇野郎の問題で、俺がどうこう言っていいことじゃねえからな。知りてえなら直接本人に聞け」
「それだけ知っておることをアピールしておいて丸投げじゃと!?」
姫神はなにやら複雑そうな背景があることを匂わせておいて結局詳しいことは何も教えてもらえなかった事にぶちぶちと文句を言う。
「拗ねんなよ、姫」
兄神はぽすぽすと姫神の頭を優しく叩いて微笑んだ。
それは幸せそうというよりは寂しそうで、悲しそうで、それでいて申し訳なさそうな、穏やかでありつつもそこはかとなく負の感情を感じさせる微笑みだった。
「少なくともあいつは死にたくてやってる訳じゃねえ筈だからよ」
「しかしじゃの、兄上……」
心配なものは心配なのじゃ、と姫神は先程まで振り回していた手を握りしめ、不安げに兄神を見上げた。
「心配することは悪い事じゃねえ。その行動の理由が知りたいと思う事もだ」
実際あいつは結構危ねえことをやってるしな、と兄神は言った。
「だが、姫だってあいつに言ってない事とか秘密にしてる事があるだろ?」
「それは、まあ」
姫神は少し後ろめたさを感じつつも肯定する。
伝えることが出来ないままの秘密なら姫神自身も抱え込んでいるのだ。それも、とてつもなく大きな秘密を。
「それと同じようにあいつにも姫に言ってない事や秘密にしてる事があったってだけだ」
「妾に言っておらぬ事や秘密にしておる事……」
「姫もあいつも、お互いに伝えてねえことが多すぎるんだよ。」
だから一度、腹を据えて話してみたらどうだと兄神は犬歯を見せつけるように豪快に笑った。
そして、俯いて黙り込む姫神を励ますようにぽすりと一度姫神の頭を優しく叩くと、これで話は終わりだとでもいうように姫神から離れた。
「さて、じゃあ俺は帰るな」
その言葉がスイッチであったのだろうか、兄神の表情がそれまでの柔らかなものから一転する。
見たものを凍てつかせるような、何の感情も読み取れない無表情だ。
それに合わせて、会話をしている間にはほとんど感じさせなかった神気が溢れ出し、兄神を包んでいく。
完全に神気を纏いきった時、そこに居たのはこの世界に存在する八百万の『神』の一柱としての兄神であった。
「次に会うのは、『祭り』の日だ」
兄神は眉一つ動かさず、事務仕事のように淡々と告げる。
「それまでに準備をしておけよ」
「……はい」
短く返事を返した姫神もまた、神としての表情に変わっていた。
彼らにとって『祭り』とは神として迎えなければならない重要なものであるのだ。
その日が来るまでに神としての己を見つめ直し、不必要なものは全て削ぎ落としておかねばならない。
「どうするのかはお前次第だ」
だからこそ兄神は準備をするよう告げたのだ。もう迷っている時間はないのだから。
「……助けることもできねえ、不甲斐ない兄貴でごめんな、姫」
兄神は一瞬だけ、『神』としてではなく、姫神の兄としてそう告げる。
姫神は言葉を返さなかった。
神としての己の為に。そして、優しすぎる兄の為に。
兄神はそれ以上言葉を発することなく、纏められていた赤髪を解いた。
ふわりと解けた赤髪は重力など感じさせない柔らかな動きで兄神を覆っていく。
繭玉のように赤に包まれた兄神はそのまま空気に溶けるようにその姿を滲ませていき、やがて消え去った。
一人残された姫神は名残を惜しむように兄の消えた場所を見つめる。
「もう猶予はない、か」
そして艶やかな黒髪を靡かせ、誰も居なくなった部屋を去っていった。
その瞳の中にはもう迷いはない。
もう、覚悟は決まっていた。
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