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あと一週間、と蛇男は呟いた。
姫神が立ち去った後、淀みに入る気も起きずに木に寄りかかったまま惚けること数時間。
蛇男は姫神との会話を反芻しては意地を張って冷たい態度を取ったことを反省し、あのタイミングで聞いてしまえばよかったと後悔していた。
蛇男が淀みに入るようになったきっかけ、姫神が抱えている秘密について。
それを知ったのは一年ほど前。姫神に会いに行った社の奥で偶然出会った兄神から聞かされたのだ。
それからずっと直接尋ねようとしては勇気が持てず後回しにして、気付けばもうあと少しという所まで来てしまった。
「早くしないと」
「何をするのじゃ?」
「っ姫神」
背後から聞こえた声に驚いて振り向くと、寄りかかった木の後ろから姫神がひょこりと顔を覗かせていた。
「あー、その、なんじゃ。先刻ぶりじゃの」
先程気まずい別れ方をしたせいか、姫神は歯切れの悪い挨拶をする。
「え、ええ、先程ぶりですね」
少し強張った姫神の笑みにつられて、蛇男も辿々しく言葉を返した。
それから暫く無言の時間が流れる。お互いに、会話を始めるタイミングを図りあっているのだ。
そんな沈黙を破り、最初に言葉を発したのは蛇男だった。
「……姫神。俺は貴女に教えて欲しいことがあります」
「教えて欲しいこと?」
蛇男がわざわざ尋ねてくるような事柄に心当たりのなかった姫神は、オウムのように言葉をそのまま繰り返す。
「はい…… 俺に姫神の秘密を教えてください」
緊張した面持ちで蛇男は姫神の目を見つめ、ずっと言えずにいた言葉を声に乗せた。
「一週間後の祭りで、貴女が何をしようとしているのか」
「どこでそれを⁉」
祭り、という単語に姫神の顔が強張る。その様子にやはり自分には話すつもりがなかったのだと悲しみを覚えながらも蛇男は話を続けた。
「知ったのは一年前に社で兄神に出会った時です。それからずっと、貴女に尋ねる事が出来ずにいた。けれど俺は、貴女から直接聞きたかった。貴女がどう思っているのかを知りたかった」
だから、教えてください。すがるように語り掛ける蛇男を姫神は見つめ返す。
蛇男が尋ねてきた事は、ずっと言えないままでいた姫神の秘密だった。
姫神は驚きと同時に丁度良かったとも思った。なぜなら姫神も、伝える覚悟をしてきたばかりだったから。
「……其方は妾の社が何を奉るものだか知っておるか?」
「姫神を奉っているものでしょう?」
突然変わった話題に首をかしげながらも答えた蛇男の言葉を、姫神は軽く首を振って否定する。
「それは少し異なるのじゃ。社が奉っておるのは姫神ではなく『秘め神』。秘められし神と書く」
「秘められし神?」
「なんじゃ、その辺りのことは知らぬのか」
全てを知られているものだと思っていたために拍子抜けした顔をする姫神に蛇男は気まずそうに言う。
「一週間後の祭りの日に何が起きるのか、くらいしか知りませんよ。後は本人から聞くようにと言われていますので」
「そうか」
その言葉があまりにも兄神らしくて、姫神は少し頬を緩めた。先程姫神も言われたばかりの言葉。大事なことは本人から聞け、というのが彼の信条なのだ。
「秘め神とはその代で最も強い神力を持った神が授けられる神名じゃ」
ここにはいない兄神に背中を押された心持ちで、姫神は説明を続ける。
「そしてそのお役目は其方も知っての通り…… 千年の間淀みの内にて淀みの浄化を行う事じゃ。千年後、お役目が終われば淀みから出る事ができるが、戻ってきた秘め神は一柱もおらん。神力を失って消えたのだろうと言われておるが、確認する事も難しい」
蛇男は思わず息を呑んだ。理解していた筈の事実が、姫神自身の言葉で語られる事で現実味を帯びてのしかかってくるようだった。
「その存在も生死も全て淀みの内に秘められたままの神、秘められる定めを持つ神を、妾たちは淀みに秘められし神、秘め神と呼ぶのじゃ。ここ数千年はずっと女神が授けられておったために、下界では『姫』と歪んで伝わっていったのじゃろう」
まるで他人事のように淡々と、姫神は最後の事実を述べる。
「そして、今代の秘め神が浄化の為に淀みへと潜る日は一週間後。秘め神を奉る祭の行われる日なのじゃ」
「姫神は! 姫神は、それでいいんですか!?」
姫神の言葉に被せるように蛇男は叫んだ。その悲痛な叫びに姫神は兄神といる時に見せたものと同じ、神としての表情で答えた。
「当たり前じゃ、妾は姫神じゃぞ? お役目を放棄しては妾は姫神ではなくなってしまう」
「お役目も存在意義も関係ない! 俺が聞きたいのは、貴女がどうしたいかだ!」
神でも何でもない、一人の少女としての意思を尋ねる蛇男に姫神は表情を崩さないまま尋ね返す。
「妾に神をやめろと? 他の生命を犠牲にし、己の在り様を歪めてまで生きながらえる未来を選べというのか?」
無表情に、それでも微かに怒りをにじませた瞳で見つめてくる姫神。しかし蛇男はそれにたじろぐこともなく、言葉を紡いだ。
「貴女が望むのなら、死にたくないと願うのなら、それだって一つの選択肢でしょう?」
「兄上といい其方といい、どうしてこうも……」
小さな声で悪態をついた姫神は神としての表情を歪め、苛立ったように蛇男を睨みつけた。
「妾がお役目を放棄すれば淀みは国中に広がり下界を飲み込むのじゃぞ! そうなれば全ての命が死に絶える! 妾に下界の命すべてを見殺しにせよと言うのか⁉」
「貴女が幸せなら世界なんてどうだっていい!」
姫神は思わず息を呑んだ。蛇男は、姫神の幸せのためなら下界の命全てを犠牲にしてもいいと言い放ったのだ。
姫神はそこまで己の幸せを望まれているとは考えていなかった。だから、思わず疑問を口にした。
「何故、そこまで妾の幸せにこだわるのじゃ」
「それは……」
けれど蛇男がそれに答える前に、その声を遮って姫神は言った。
「いや、もう良い。聞くまでもない」
それは理解の拒絶。知ったところで己の意思が変わることなどないという諦念だった。
「聞いてください姫神! 俺は!」
「もう良いのじゃ!」
言い縋ろうとした蛇男は姫神の剣幕に気圧され口をつぐんだ。
「妾は最初から、この秘密を其方に明かすつもりでここに来た。そして穏やかに、笑って別れを告げるつもりじゃったのじゃ」
姫神は完全に神としての顔の剥がれた、ありのままの自分として笑った。穏やかに、そしてどこか疲れたように。
「しかしそれでは其方は許してくれそうにないな」
迷惑なことじゃ、と言いながらもその声音はまるで歓喜しているような響きで、優しく優しく蛇男を蝕んだ。
「だから、其方が悪いのじゃ」
そこまで話した途端、蛇男がぐらりとその場に倒れこむ。
「これは…… 術、ですか……」
突然強烈な眠気に襲われた蛇男は焦点の合わない瞳をさまよわせながらも姫神に手を伸ばす。
「姫神っ…… 俺、は……」
けれどその手が姫神に届くことはなく、ぱたりと虚しく地面に落ちた。
それを見届けた姫神はため息をついて寝息をたてる蛇男を木陰に運ぶ。
「どうして兄上も其方も、妾に選ばせようとするのじゃ。選択肢など無いというのに」
疲れたようにそう呟いた姫神は、振り返ることなくその場から立ち去った。
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