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五年前、初めて出会った日も、今日みたいな十一月の午後だった。
大学からバス停まで続く並木道は、少しばかり色づいて黄や紅がかった世界の中心で、それを愛でる余裕もなく私は急いでいた。シフト開始の時間まではあと二十分。駅までバスで十五分。そこから南塚書店までは走って二分。なんとか、間に合いそうだ。
心理学の授業はいつも延長する。私は隣で寝落ちしそうになっていたリオに「ごめん、ノートお願い」と頼み、忍び足で教室をあとにした。
息を切らせながらも間に合い乗り込んだバスには私と、優先席に座る年配の女性。そしてもう一人――グレーのフードパーカーにチノパン。キャンバス生地のトートバッグには見たことのない得体のしれないイラスト。
後方二人掛けの窓側に座る男、それが三谷だった。
一つ目の停留所で女性が降りると、車内は二人だけになった。
私は通路を挟んで反対側の窓側の席に座り、バイト用のメモを見返して、今月新しく入荷した書籍をおさらいしていた。
「あの……」
集中していたので、最初その呼びかけには気が付かなかった。
「あの、すみませんけど」
もう一度そう言われて、ようやく顔をあげた。
「この歌、なんていう歌だか、知ってますか?」
彼は何かを口ずさんだ。
「え?」
「いや、ずっと思い出せなくて。ほら、そういうのって、何だか気持ち悪いじゃないですか。ここに、何かつっかえたみたいで」
隆起した喉ぼとけを触りながら言う。
「はあ……」
その時、何故だか私はバイトのメモを放っぽりだして真剣に考えてしまった。
「もう一度、歌ってみてくれますか?」
そして当ててしまったのだ、その答えを。
「『Candy in Autumn』じゃないですか? 歌手は、忘れちゃいましたけど」
「あー!」
大げさにそう言うと、今にも両手で握手をしてきそうな勢いで体を乗り出してきた。
「そう、それだ!それ。『Candy in Autumn』。ありがとう」
彼はポケットから小さな木彫りのマスコットのようなものを取り出すと「これ、お礼に」と空いていた私の隣の席にちょこんと置く。犬なのかクマなのか、それとも別の何かなのか。
「何ですか、これ?」
触れる前にだいぶ警戒した様子で尋ねると、
「あ、もしかしてこっちが良かった?」
今度は反対側のポケットから同じ猫っぽいそれを取り出す。
「あの、そういうことじゃなくて……」
次は、武蔵野市立緑ヶ丘医院前――。
車内のアナウンスが流れると彼は降車ボタンを押し、あっという間に出口の方へ駆ける。いやに大きなブザー音と共にドアが閉まり、窓越しに目が合うと、屈託のない顔で微笑んだ。
――ありがとう。
聞こえなかったけれど、きっとそう言った彼の唇をなぞるようにして、私は同じ言葉を繰り返す。燃ゆる紅色のモミジ葉と栗色のイチョウの葉が相まった暖色の世界を前に、まるで自分の唇まで熱を持ったように、指で触れるとじんとした。
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