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きっと、気づいていた。エレベーターを降りたあたりからかすかにした、十一月の午後に紛れ込む懐かしい香りに――癖っ毛の黒髪が無造作に瞳のあたりを遊ぶ。昔開けたピアスの跡が残る小さめの耳たぶは、まだ私のよく知っているあの頃の彼だというサインなのだろうか。
崩れ落ちたように座り込み、こちらを見るだけで何も言わない彼に背を向けて、私はトートバッグの中から鍵を探すふりをした。ゆっくりと鍵穴に差し込まれた金属の、無機質な音は一気に現実へ引き戻すよう。思わず振り返るとふいに目が合いふらふらと立ち上がるので、私は部屋の中へと逃げ込んだ。
玄関の床にへたっと手をつくとどこで付けたのか砂利が纏わりつく。それを払うために両の手を触れ合わせると、そのくすぐったい感触がこのドアを開けようか開けまいか、今の自分の気持ちを試すみたいで、わざと時間をかけながら一粒一粒砂利を落としていく。
この扉の向こうに彼がまだ存在しているのだと思うと、徐々に速くなる自分の鼓動が彼に伝い漏れてしまいそうで怖くなる。ゆっくりと立ち上がりドアを開けると、あの頃慣れ親しんだ優しい瞳の中に私を確かに映して彼は言った。
「あなたは、僕のことを知っていますか?」
記憶がないんだ――半年前、事故に遭ってから。名前は三谷春男ということ。遠野美大で彫刻を教えていること。最近のことは覚えていられるのに、事故に遭うまでの、特に昔のことがどうしても思い出せない。それで、あの坂を登ってこのあたりに来たら、すごく懐かしい感じがして、どうしてもここに来ないと行けない気がしたんだ。
柔らかい光が差し込み、私たち二人を包んでいる。壊れそうなくらいにこみ上げてきた色んな感情は静かに押し戻されて、私の体の奥の方が泣いていた。五年経った今、彼に記憶がないのなら、このまま私のことを思い出さなくてもいい気がしていた。彼が思い出したら、私もきっと、また苦しくなるから――。
部屋の中に招き入れると、彼は何かを思い出そうとするように家具や壁に手を触れながら、まじまじと部屋の中を見渡した。
「何か、思い出しましたか?」
「……いや、思い出せないんですけど、昔、僕はここから見える景色が、好きだった気がします」
そう言って、去年の夏に買った百均のピンク色のビーサンをつっかけて彼はベランダへ出た。私も靴下のまま隣に並ぶ。
「そんな、大層な景色じゃないですよ。たった三階ですし。特段、何が見えるわけでも……」
中央にブランコと鉄棒、そしてブラウンの二人掛けのベンチ。所狭しと並ぶ住宅街の中にぽつんと存在する小さな公園――入口の石段には鮮やかな橙に色づいたモミジの葉が、まるでどこかで見た、折り紙とか和紙の文様を織りなすように疎らに広がる。
秋の澄んだ空気の中に子供のきゃっきゃ笑う声が美しい旋律のごとく調和していく。
そうして二人隣に並んで、同じ景色を見ていた。あの頃みたいに――。
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