秋の記憶

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「私、春男くんのことが好きなんだよね」  リオはちょっと照れくさそうに切ったばかりの前髪をいじりながら話す。ホワイトボードに書かれた心理学のレポートのテーマ、その漢字が全然頭に入ってこない。 「高校の時から。きっと初恋は春男くんだったんだと思う。アズは輝くんといい感じ?」  輝くんとは特に何もない。  私は「いや、何もないよ」と平気な風を装って言った。  三谷については、連絡先すら知らない。いつも集まる際はリオ経由で連絡をしていた。SNSもやっていないので、つながるツテはリオを介してか、偶然以外にはなかった。偶然――あの、バスで出会った日のように。  それでも私は何となくだけれど、三谷とつながっている。そんな気がしていた。でも、私は所詮、三谷とつながってなんかいない。つながってはいけない。友達の、好きな人なのだから――。 「早めに来たら、困るよ。準備とかあるし」  いつものように早く来た三谷にそう言うと、彼は一瞬面食らったような表情をした。 「なんか怒ってる?」 「怒ってなんかないよ。リオ、もうすぐ来るから」 「……そっか。じゃあそれまで外で待ってたほうが良い?」  玄関の扉を閉めようとした時、あの聞き覚えのある歌が、よれたワイシャツの、頼りなさそうな背中から聞こえてきた。「Candy in Autumn」だった。  私も思わず口ずさんでしまう。  彼が振り返るので、どうしようもなくなって、「やっぱ、中にいて」と腕まくりをしたシャツの端っこを引っ張った。  そうしていつものようにベランダに二人並ぶ。 「その歌、本当に好きなんだね」 「うん。でも本当はずっと、秋は嫌いだったんだ」  彼はちょっと寂しそうな目をして話し始めた。  アメリカに行ったばかりの頃、僕はまだ九歳だった――。  最初の一年は英語も喋れなかったから友達がいなくて、いつも一人でコラージュとか粘土とかに夢中になってた。どんどん言葉を発さなくなる僕を見て、両親はすごく心配していたようだけど、僕は出会ったんだ。エリックに。  十月になると、庭一面を覆う黄土色の落ち葉を集めてコラージュを完成させる。彼は隣の家に住んでいた少年で、耳が聞こえなかった。でも歌が好きで、庭で一緒に遊ぶ時はいつだって僕らは少し大人びたその歌詞を何度も口ずさんだ。学校に馴染めなかった僕にとって、エリックだけが友達だったんだ。  月曜日だったと思う。週末に焼いたマドレーヌの残りを母が学校へ行く僕に持たせてくれていたから。帰り、車で家の前の通りまで来ると、先に庭に出ていたエリックがこちらに笑顔で手を振っていた。その斜め後ろから居眠り運転の車が近づいてくるのが見えて、僕は危ないって叫んだけど、エリックには聞こえなかった。それで、エリックは僕の前から永遠にいなくなったんだ。  あれから十何年経って、あの曲を忘れようとしてずっと遠ざけていた。でもやっぱり忘れちゃいけない気がして、君に聞いたんだ、あの日、バスの中で。そしたら君が思い出させてくれた――「Candy in Autumn」。  今はね。あの時に似た季節の中で、君の隣でこうして口ずさんでいたら、やっぱり秋はそんなに嫌いじゃないなって思えるようになったんだ。  話し終えた彼は私の肩にそっと寄りかかった。  そして私はその癖っ毛の黒髪を優しくなでた。 「このまま、秋が好きになれるといいね」  どさっと音がして振り返ると、玄関にはリオがいた。  目が合うと飲み物の入った袋を両手に持ったまま、背を向けて飛び出していった。 「待って、リオ」  その呼びかけを無視して逃げるように走り去るリオは、階段から転倒。そして、左足を骨折した。  その日以来、私たちが顔を合わせることはなくなった。リオと授業に出ることも、四人でごはんを食べることも。そして、三谷がうちへやってくることも。私はリオを裏切ったような気がして、結局卒業までリオと目を合わせることすらできなかった。
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