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埒が明かないのでわざと大ぶりの左を振った。すると寸毫の間もなく左わき腹に衝撃が走った。カウンターで放たれた霞のフックだ。
「来ると分かっていても……、クソが」
毒づく気持ちを噛み殺しながら空いた顔面に右を振る。
ガードは空いている。俺が打たせたからだ。ここまで九ラウンド打ち合っている。優勢なのは俺だ。攻める俺、守る霞。この三ラウンドですっかり試合はその形になった。
だから腕の戻りが遅い、そもそももう腕が上がらないのだろう。守りながら偶に放つ反撃もボディーばかり。拳はまだ生きており斧のような威力だが、しかしボディーで人は倒せない。意識を絶つにはどうしても顔面を殴打する必要がある。
霞は疲労している。
それに歳もある。霞はもう四十を超えている。ボクサーとしての峠はとうに過ぎている。そのスタミナ、筋力、反射神経、ボクサーとして必要な身体能力、どれも成人したばかりの自分とは比べるべくもないだろう。
老いて、痛みつけられ、それでも立っている。それだけでもう流石というしかない。それを支えているのは無敗の矜持かはたまた王者の執念か。
四十過ぎて世界王者。それも無敗。異常なペースで試合を組みこれまでにデビュー以来九十九連勝。世界記録だ。
自分と霞との間には大きな因縁がある。今日、ここで俺は霞を倒さなければいけない。それが運命だ。だがそれでも霞の成した偉業に畏敬の念を抱かずにはいられない。
しかしだからこそ、ここで終わらせなければならない。
偉大なる先達、業界の伝説の老骨をこれ以上打つわけにはいかない。
なにより霞自身が望んでいるに違いない。霞侠は今日ここで仁実によって敗れる。
かつて自分が撲殺した男の息子によって戦歴の幕を引く。きっとこの男はこれまでの九十九戦、ずっとそのために戦い抜いてきたのだから。
ガードがおりたままの左顔面、そこへ目掛けて一直線に右を走らせた。
霞さん、終わりにしよう。
アンタにとって初めての敗北。
俺にとって初めての世界王者。
この一戦で俺たちのあの日を終わりにしよう。
これが、俺たちの明日への一歩目にするんだ。
しかしそこでゴングが鳴った。
拳は霞の顔面に届かなかった。あと一秒、いやその半分あれば終わったのに。終わらせてあげられたのに。
決着は次のラウンドに持ち越しとなった。
忌々し気に拳を見つめていると霞が口元を歪ませた。そしてコーナーへと去っていく。その間際に口ごもるようになにか零した。
「え?」
戸惑っていると声を掛けられた。
「おい、実」
ジムのオーナーで俺のセコンドだ。釈然としないまま俺は自分のコーナーへと下がった。一分間のインターバル。しっかり休んで体力を回復する。そして次のラウンドこそ決着をつけよう。俺と俺を取り巻く全ての為に。この宿命に。
九ラウンド目が終った。
コーナーに下がり、セコンドの用意した椅子に腰を下ろした。思わず吐息が漏れる。
「ふぅ……」
「おい実、行けるよな」
眉の根を寄せて、ジムのオーナーが顔を覗き込んできた。オーナーであり俺の専属コーチだ。デビュー以前から今日まで二人三脚で戦い抜いてきた戦友だ。
「ああ、勿論だよ。ただ」
「ただ?」
踵を上げて床を二三度かるく踏んだ。
「少しボディーが効いてるかな。足のマッサージを頼む」
「おう」
オーナーが顎で促すと若手トレーナーが足のマッサージを始めた。硬くなった筋肉が解され溜まった乳酸が溶けてゆく。しかしそれでも淡い痺れが芯に残って消えない。
「……強いね。やっぱ」
「当たり前だ。あいつは霞侠だぞ。どれだけの化け物か、お前だって知っているだろう」
思わず苦笑する。その通り、でもここは励ませよ。
しかし、その言葉はまごうことなき事実。
霞侠。確か今年で四十五歳。独身。右利き。戦歴は九十九戦無敗、二十三で世界王者について以来ずっと頂点に君臨する、生ける伝説。
そして、親父を殺した男。
試合中の事故だと聞いている。聞いているというのは、当時俺はまだ幼くてよく覚えていないから。全ては後からお袋に聞かされた。試合中に親父は霞に脳天を砕かれて死んだ。お互いにデビュー戦だったという。霞は親父の葬式にも顔を出さなかったらしい。
そして親父が所属していたジムが今俺が所属しているジムで、親父のセコンドについていたトレーナーがオーナーだったという。
俺はお袋に親父の仇を討つように言い聞かされて育った。餓鬼の頃、友達が玩具で遊んでいる時間に走り込み、トレーニングで反射神経を磨いた。俺はTVゲームをやったことも無い。視力が落ちるからと家で禁止されていたからだ。
でも、それは別になんでもない。当たり前のことだと思う。
親の仇を息子である俺が討つ、それは道理が通っているしとても美しい物語だとも思う。部外者はもしかしたら俺を周りの環境の操り人形と思うかもしれない。でも違う。俺は自分の意志でこの運命を選んだ。
「もちろん知ってるよ」
オーナーに答えた。そして言った。
「でも俺は勝つよ」
「ああそうだな」
チラリと、リングサイドの観客席に目をやった。有名人や識者に混じって一人の小柄な女性の姿があった。彼女はリングも見ずに俯きじっと祈っていた。
「実……。菫のためにも勝ってくれ」
「ああ」
オーナー、いや義父の言葉にうなずく。ここまで九ラウンド戦ってきた。ダメージは染みのように体の芯に刻まれている。マッサージを受けても尚、痺れが残り足取りを重くしている。それでも彼女の姿を見ると胸の奥底から力が湧いてくる。
一人じゃない。俺は一人で戦っているんじゃない。オーナー、コーチ、菫、応援してくれるファン、スポンサー、TV局、みんなと共に戦っている。みんなが俺が勝つことを望んでいる。だから
「必ず勝つよ」
答えた。親の仇、霞侠を倒す。親から受け継いだ運命に決着をつける。
そして俺は自分の人生を自分で選んだ伴侶と共に生きていく。
今日がその初めの一歩だ。
「セコンドアウト」
セコンドたちに下がるように指示が来た。一分間のインターバルが終わる。
「オーナー」
「うん?」
ロープを潜ってリングサイドに降りていくオーナーに言った。
「このラウンドで終わらせるよ」
ラウンド開始のゴングと共に地を蹴って間合いを詰めた。俺が駆けるとともに上がった歓声で空気がびりびりと震えた。そして俺の名前の合唱に変わった。再び確信する。皆が、この会場の、そして日本中の皆が俺の勝利を望んでいる。そしてそれは霞も同じだろう。
接敵と共に左をガードに叩きつける。そして構わずに右を続ける。
霞は動かない。足を踏ん張り身を固めてジッと耐えている。
試合前半の頃、霞は華麗なステップを刻み距離を操っていた。しかしその足さばきはもう見る影もない。
もう体力が持たないのだろう。
当たり前だ。
ここまで九ラウンド、インターバルを挟んで約30分間殴りあっている。四十を過ぎた男が、だ。
もう十分だろう。
霞侠。あんたはもう十分戦った。今日の事だけじゃない。これまでの戦歴全てだ。
最初の一戦で人を殺めて以来、ずっとこの男はバッシングの中で戦ってきた。今日の俺への応援も純粋な俺への人気じゃない。この男への嫌悪でもあるのだろう。
それでも負けずに貫いてきた、この男は。たった一人で。
その在り方には尊敬の念を禁じ得ない。
そして因縁しかない俺とあんただけれども、俺に憎悪は無い。
親父には悪いけど、顔覚えていないのだから仕方ない。それよりもあんたへの敬意が勝る。
そうだ。
仁実は霞侠を尊敬している。
偉大な男だと思う。
でもだからこそ、俺は今日ここでこの男の戦歴に終止符を打つ。
もう十分だろう。九十九の勝利を積み重ねてきた。たった一人で勝ち取ったものだけどあんたの両腕に溢れているじゃないか。
もちろんそれゆえの重さもあるのだろう。だから今も戦っているんだろう。分っている。だから俺が倒す。それが運命だ。
あんたの初めの一歩で踏みしめた勝利が、あんたの最期を看取る死神になる。
分かるだろう。俺はあんたにとって唯一人だ。
俺が勝つ。
あんたが望んでいるように。
あんたを負かす。
それがあんたの望みだろう。
右を叩きつけると霞の体が後ろに流れた。更に重ねる。
一発、二発。
三発目で後ろに大きく飛び霞がロープを背負った。チャンスだ。
追って更に加撃する。
左右の連打だ。リズムよくカードの上から叩きつける。
霞の体がロープに沈む。構わない。どのみち逃げ場はない。ガードが崩れるまで、あるいはその腕が砕けるまで殴り続ければいい。
内側に引っ掛ける様に左のショートフックを放つ。しかしガードは崩れない。
息継ぎをするように半歩距離を取った。その瞬間
脇腹に爆発が起こった。
「ッぐ」
下がった俺を追う様に霞がロープの反動で体を跳ね上げて右を振ってきたのだ。
油断していた俺はきれいに貰い一瞬、息が詰まった。更に霞はそのまま引っ掛ける様に俺の脇を滑り抜け態勢を入れ替えた。今度は俺がロープを背負っている。
そのまま重ねてきた。同じ場所に二発。
「調子に乗るなよ」
打たれた箇所に燃え広がるような違和感に俺は思わず奥歯を噛んだ。
そして二発目にタイミングを合わせる様に霞に左の大砲を放つ。
炸裂直前に霞は顔面と拳との間にグローブをねじ込んだ。だが威力を殺せるものじゃない。霞はそのまま後方へ大きく吹っ飛んだ。
途端にワッと歓声がリングを震わせる。ベテランの妙技でひっくり返りそうになった試合を俺が若い膂力で吹っ飛ばしたからだ。やはり古今こういった分かりやすい派手さは観客受けがいい。
脇腹の灼熱感は依然残っているが声援に背中を押される。この応援に応えたい。その思いと共に込みあがってきた力と共に地を蹴って霞に襲い掛かる。恐れることは何もない。俺は一人で戦っているんじゃない。俺はみんなと一緒に戦っている。
今のやり取りで確信した。油断はできない、霞の拳はまだ生きている。だがそれ以上に霞は追い詰められている。もう足の踏ん張りも聞かないのだろう。だったら休む間もなく追撃を加える。
もちろん俺だってダメージも疲れも蓄積している。でも止まるわけにはいかない。
応援されている、期待されている、信じられている、望まれている。
だから勝たなければいけない。そうだこれは俺の――……
「負けられない戦いなんだよ」
霞に躍りかかりこれまで以上のラッシュを加える。
亀のように固まる霞を構わずに殴り続ける。
ガードを崩して顔面に一発入れれば終わる。いやもういっそガードごと叩き潰してやる。
気合と共に右を振りかぶった。
今放てる最高の一撃を構える。全身全霊の力だけじゃない。俺が背負った全ても乗せる。終わらせよう霞。この試合も、そして俺たちの因縁も、決着と共に運命を。
わずかに綻んだガードの隙間を目掛けて渾身の一撃を放った。
挑戦者≪おれ≫が王者≪あいつ≫を倒すところを、みんな見たいはずだ。
だが全てを賭けた一撃を霞はグローブであっさりと打ち払った。
子供の時から、人と仲良くすることが苦手だった。
親には薄気味悪い餓鬼だと言われた。学校の先生には生意気な不良だと決めつけられた。同級生にはいけ好かない奴、ジムの同僚には才能を鼻にかけた増長天と思われている。
ずっと一人だった。一人で生きてきた。
へらへらと作り笑いを浮かべることが苦手だった。思ってもいないお為ごかしを吐くことが出来なかった。なあなあで誤魔化して生きることが出来なかった。
生きる意味なんてないし、孤独だった。でも曲げることはできなかった。
生臭いペテンが露呈しても泣けば許されると思っている美談の主や嘘や他人の事情に踊らされて生きるよりもずっといい。
そう思っていた。
でもこの世界に出会えた。
シンプルな世界だった。
ルールを守る。そのたった一つのルールさえ守ればそれでいい。美しいと思う。美談や物語よりもはるかに。
相変わらずに嫌われているし、俺は一人だ。だがそれがどうした。ここで勝ちたい。一つだけ生きる意味が出来た。でも生きる意味なんて一つあれば十分だ。
だから今日まで戦ってきた。
事故が起きたこともあった。相手は俺とは違い人気のある男だった。妻と生まれたばかりの子供のために戦うと言っていた。
周囲もそれを喝采した。美しい物語だと称賛した。
でも勝ったのは俺だった。
お前には理由がないじゃないか。そう責められた。いいや違う。理由はあるんだ。でも言葉は出てこなかった。
何度も繰り返してきた。勝つたびに嫌われた。
もういいだろう。そんな言葉を掛けられたこともあった。
でも、俺は今もここにいる。
だって俺は勝ちたいんだ。
負けたくない。たった一つの生きがいだから。
物語は背負っていない。運命に選ばれていない。誰からも望まれていない。でも世界でただ一人俺は俺を望んでいる。
勝つべきは俺じゃないかもしれない。
皆に選ばれているのは君なのかも知れない。仁実。君は一人じゃない。みんなと一緒に戦っているのかもしれない。
だからみんなが君を望んでいる。
みんなだから出来ること、その結実を望んでいる。
だとしても
一人でしか出来ないものがあるって、見せるよ。
十ラウンド、開始と同時に仁は飛び出してきた。
その姿に会場もボルテージを上げて応援にも一層熱が入っている。左右を繰り出す連打は速く、若い勢いに溢れている。
あっという間にロープ際まで追い詰められたがそれまでだ。ガードを固めていれば中々致命傷にはなりはしない。逆に勢いに任せた速攻はすぐに限界を迎えた。
訪れた息継ぎのような間を縫って左わき腹に右フックを突き立てる。
呻くように体が揺れる仁にそのままフックを引っ掛ける様にして態勢を入れ替えた。そして同じ場所にもう一発、今度は置くように重ねる。拳からうける感触が微かに変わった。ようやく実りの時が訪れそうだ。
だがそこで仁は反撃を放ってきた。大砲のような右ストレートだ。咄嗟に拳と顔の間にグローブをねじ込んで防御した。それでも勢いを殺しきれずロープ際まで吹っ飛んだ。
視界が一瞬白色に焦げる。
目の前の若者は間違いなく天賦の才に恵まれていた。それは二十そこそこで世界戦にたどり着いたことからも間違いない事だろう。しかしそれ故に惜しい。彼が背負ったものが。
背負わされたものに背を押され拙速な攻めに駆り立てられている事実が。
才能がある、努力もしたのだろう。しかし周囲の期待を受けて彼は勝ちに急ぎすぎている。もっと間合いを取って自分の距離で戦えば、あるいはとっくに王座を手中に収めているかもしれない。だが現実には盛り上がった興業の熱に浮かされ不味い攻めを繰り返しているだけ。若い才能が周囲の期待に足を引っ張られる典型だった。
その証拠に、懲りずに仁は同じ速攻を仕掛けてきた。
多分、彼は用意されたかたき討ちの物語を遂行することで一杯なのだろう。そのために自分を取り巻く全ては都合の良いようになると信じて疑わないんだろう。
もっと言えば、彼はきっと負けられない戦いをしているのだろう。彼にも、そしてみんなにとっても。
その世界では負けていいのは俺だけで、俺こそが負けるべき悪なのだろう。
ああ、でも――
「それは嫌だ」
勝ちを急いだのだろう。仁は決めに掛かった大ぶりの右を放ってきた。そんなテレフォンパンチなどもらうはずがない。
切り払って受け流す。すると攻撃が大ぶりだった分だけ仁は前に体勢を崩した。
そのまま試合開始以来なんども打ち込んできた脇腹に鉄拳を叩き込む。
陶器の砕けるような感触と共に仁が呻いた。これを見込んでずっとボディーだけを攻めてきた。肋骨を砕いたのだ。元々、肋骨は側面からの衝撃に弱い。
興奮した人間はダメージに鈍い。勢いに乗っているのならばなおさらだ。四十を過ぎたロートルに拳程度では止まらないだろう。
だが腸を折れた骨に引っ掛かれればそうはいくまい。
ずっとこれを狙っていた。
仁が距離を取ろうとしたが足が縺れて上手くステップを刻めなかった。当たり前だ。ボディーのダメージは足に来る。距離を取ることはできないだろう。
深呼吸をして仁に向き直る。ステップを刻み仕留めにかかる。
会場がにわかにざわめいた。
仁のセコンドが慌てて何かを喚いている。
当たり前だ。この一戦に掛ける仁の思い、動いた金、人間の数、新チャンピオンのキャンペーン費用、どれも想像もつかない。
仁の背景の人間たちにとって仁が勝つのが既定路線、そのつもりでもう動いている。まさに負けられない戦いなのだ。
負けるべきは嫌われ者只一人。
俺には何も背負うものはない。
誰も望んでいない。
期待されていない。
勝ったところでそんなものコンビニのおにぎり百円セールに話題性で劣るだろう。
でも、だからといって負けていいわけがない。
何時だって勝負に挑むからには勝つために戦っている。勝ち上がって『お前じゃない』と言われたって勝ちたいから勝つ。
誰も期待していなくても俺は俺に期待している。
何時だって今日勝つために生きてきた。
だからそう、当たり前なんだよ。
戦いなんて全部勝たなければいけない。
例え相手が劇的な運命を背負っていたとしても、美しい物語なんかに負けるわけにはいかない。
勝負なんて例外なく負けられない戦いなんだよ。
一歩で間合いを詰めて拳を振りかぶった。
すると仁は慌ててそれまで上げていたガードを下げた。いい判断だと思う。
これまでずっと俺はボディーしか殴っていない。それがは狙い通りなのだが理由はもう一つある。ここまで戦ってきた俺の拳は疲労骨折を繰り返しひどくもろい。頑強な頭蓋骨を殴ればこちらが折れることも考えられる。
だから顔面を狙うとしたらそれは最後の、介錯のための一撃になるだろう。
ガードを下げて空いた顔面に拳を走らせた。放物線を描いてグローブは顔面に吸い寄せられ、そのまま顎先を掠めた。
次の瞬間、仁は糸の切れた人形のように崩れ落ちた。レフェリーに促されゆっくりとコーナーへと下がる。しかし、カウントが始まらない。おや、と思っているとレフェリーは頭上で両腕を交差させた。
鳴り響くゴング、決着。十ラウンドTKO。
先ほどまでとは一転して会場は水を打ったように静まり返っている。
何気なく会場のモニターに視線をやるとどうやらこれで俺は百勝目らしい。ずっとそんなこと考える余裕なかった。
どれだけ戦歴を重ねたってそれは目の前の戦いを有利にはしない。背負った物語が仁を助けなかったように。いつだって一つずつ戦うしかないのだ。
勝った歓喜を主張する様に俺は右手を振り上げた。
客席から帰ってきたのはまばらな拍手だけだった。
歓迎はされていない。望まれていないしお呼びじゃないことは分かっている。
皆は見たかったはずだ|嫌われ者≪おれ≫が|人気者≪じん≫に負けるところを。
だが、それがどうした。
一つ一つを踏みしめてたった一つの矜持を貫く。この場は譲らない。
そのために罵声を浴びせられようとも邪魔者扱いを受けようとも俺は続ける。
嫌われ者のまま、負けることを願われながら。それでも。
直ぐに次の試合を組まれるだろう。
構わない。
さあ行こう。
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