みどりのめのかいぶつ

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 それは、講義が始まるほんの少し前のことだ。    ふとスマートフォンが震えたのを感じ、彼はポケットからスマートフォンを取り出した。確認してみれば、メールの着信通知が表示されている。  差出人は大学からで、学生に向けた一斉メールのようだ。物騒な件名のそれを開いてみると、注意喚起文だった。要約すると、ここ最近大学の周辺で殺人事件が多発しているため、外出には気をつけろ、とのことである。  そういえば、この辺りで不審な殺人事件があったという記事をネットで見た覚えがあるな、と彼は思い出した。  とはいえ、殺人事件と言われてもいまいちピンと来ない、というのが彼の正直な感想だ。そういうものはテレビや小説の中の出来事で、自分に関わってくるものという認識を持てなかった。  第一、外出に気をつけろと言われても、大学生に外出を控えろというのは無理があるだろう。真面目な学生などほんの一握りで、多くは飲み会やらサークルやらと、無駄に外に出るものなのだから。  実際、今日も彼には七時から飲み会の予定が入っている。今回の飲み会は、同学科の二年生のほとんどが集まるそこそこ大きなものだ。  楽しみだな、などと思いながら、彼はなんとなく講義室全体を眺めた。もうすぐ授業が始まるため、殆どの学生は席に着いているが、未だに立ち話をしている者もちらほらいる。そんな中でふと一人、目に留まる男がいた。  講義室の一番後ろの、右端の席。そこに今しがたやって来たらしい男は、染めた形跡のない黒髪に、人ごみに沈むような地味な服を着ている。  黙々と机上にノートなどを広げている姿は、今まで何度も行われてきた飲み会でも見た覚えがない。そもそも、名前を知らないどころか、この授業にあんな奴が参加していただろうか、とさえ思う程度に、彼の記憶に男は存在していなかった。  ――授業が終わったら、折角だし飲み会に誘ってみるか。  彼がそう思ったのは、ただの気紛れだった。
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