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講義が終了し、室内がざわざわと騒めき出したところで、さてあいつはと後ろを振り返ってみると、件の男は既に帰り支度を整え終えているところだった。
会話を交わしている学友たちに目をくれることもなく、さっさと立ち去ろうとする後姿に、彼は慌てて駆け寄った。
「なぁ、ちょっと!」
男が扉を潜る寸前に、背後から声をかける。すると、男は大げさにびくりと肩を震わせて立ち止まった。
「めちゃくちゃ急ぐなー、あんた。なぁ、今日の夜なんか用事ある? 七時から駅前の居酒屋で飲み会すんだけど、あんたも良かったらどうよ?」
彼の誘いに、しかし男は数秒のあいだ反応を見せなかった。なんでそんな無反応なんだ、と彼が思ったあたりで、男がゆっくりと振り返る。そして向けられたその目を見て、彼は少しだけ息を呑んだ。
――緑の瞳だ。
一瞬そう思った彼だったが、それは違うということにすぐに気づいた。確かに色素の薄い目をしてはいるが、明瞭な緑色という訳ではない。寧ろ、改めて見れば薄い茶色に近い色だ。それこそ、海外の血が少しだけ混じっているのだろう、と思える程度のものである。顔立ちも少しだけ海外の血を窺わせるものなので、あながち間違いではないかもしれないな、と彼は思った。
そう、少し珍しいかもしれないが、そこまで驚くこともない、ただの人の目である。だが、ひどく潤みを帯びたその瞳の中に、どういう訳か緑が差したように見えたのだ。いや、緑に輝いて見えた、と言った方が正確だろうか。
一瞬だけ見えた気がした緑に、彼がなんだか二の句が告げないでいると、男は一度口を開いて、けれどそのまま何も言わずじまいに口を閉じた。そしてにこりともせずにただ一度首を横に振って、こちらに背を向けると足早に去って行ってしまう。
あっという間の出来事だった。
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