ーPhobiaー恐怖なるもの

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 スーツ姿の女刑事が、拡声器を握って廊下の向こうへと叫んでいる。その先では詰襟姿の少年が、ふらふらと体を揺らしながら佇んでいた。恐怖症の発症者だ。  少年の周りでは、武装した特殊警察が無残に倒れ伏している。自慢の防備が意味もない。袖口やメットからだらだらと酷い臭いの液体を垂れ流していた。あれだ、腐った肉の臭い。これが、彼の恐怖の形なのだろう。  こちら側からの呼びかけは定番の内容。  恐怖症発症による障害、破壊行為は国の法律に則り罪に問われることはない。だから投降しろ。  無意味な呼びかけだ。身の内で抑えきれなかった恐怖を爆発させたばかりの発症者。そんな彼にどれだけ正気が残っているか。  とはいえ他人事でもいられない。佑月薫(ゆづきかおる)は今から目の前の発症者を止めなければならない。  そのために、収容されていた刑務所兼研究所から連れ出された。発症者の行為は基本全てが終わった後で無罪放免になることが多い。恐怖症は当人の意思で発症するものではないからだ。しかし殺人は別で、きっちり刑務所行きになる。  目の前の恐怖衝動に支配されている少年には同情する。彼は薫と同年代だ。薫だって少し前までは彼と同じ男子中学生だった。  そういう意味では、彼と薫は似ているのかもしれない。ずっと抱え込んでいた恐怖。それがある日突然爆発して、周囲に被害を及ぼす。世界が突然一変する。  いや、感傷に浸ってもいられないかと薫は首を振った。そうして自身の見張りである顔見知りの女刑事の方を向く。美浜理恵(みはまりえ)から返されたのは睨みだ。彼女はいつだって愛想がない。  「発症者は水地昭。レベル4、対人恐怖症(Ophthalmophobia)接触恐怖症(Haphephobia)の複合型と思われます」  「レベル4? 人間が腐ってるように見えるんだけど、生きてんの?」  「最初に弾き飛ばされたという同級生たちは分かりませんが。 警察の特殊部隊に所属する者は例外なく、バイタルチェック装置を身に付けています。今のところ生命活動が停止している者はおりません。見た目は派手ですが、所詮は集団幻覚ですので」  「集団幻覚ね」  集団幻覚で人が死ぬか。そう、己を顧みて薫は舌打ちする。  今も、取り押さえようと掴みかかった警察官が、昭に触れた瞬間弾き飛ばされて薫と理恵の間を後ろへとかっとんでいった。どごっと結構痛そうな音がしたが、さて、あれも幻覚だろうか。  「では、お願いいたします」  彼女が差し出されたのは刃渡り十センチほどのナイフだ。殺人犯に渡すものではないが、薫には必要である。  ナイフを渡す理恵の表情は仏頂面。昭の見立てではまだ二十代半ばだろう。美人なのにもったいないな、とはさすがに惰性だ。  薫はナイフを受けとると、改めて廊下の真ん中に立ち、昭を見据えた。ぼさぼさ頭の、根暗そうな少年。目の焦点が合っていないところを見ると、軽い暴走状態だと思われる。    「怖いか? 怖いよな。世の中怖いことばかりだ。君も怖いんだろうが、俺も怖い。  だから君の恐怖と俺の恐怖、どっちがより怖いか勝負といこう」  薫の体内で、ざわざわと無数のソレが蠢いている。薫は昭に向けて左腕を突き出すと、右手に握ったナイフでその二の腕に刃を突き立てた。血飛沫が舞い、激痛に呻く。何度やっても慣れないが、ナイフを握る手にさらに力を込めて、傷を開く。傷口が大きければ大きいほど、コイツらは外側へ溢れやすくなる。  流血はすぐに止まった。代わりに傷口から勢いよく真っ黒な塊が噴出する。黒くて小さな集合体。わさわさと忙しなく六本の足を動かす、無数の蜘蛛。小指の先ほどしかない蜘蛛たちが、廊下の床に落ちて、溢れ、あっというまに薫と理恵の足元を埋めた。  「俺の症状は集合体恐怖症(Trypophobia)。特に小さな虫が集まっているのが駄目でさ。それでガキん頃から森の中とか入れなかった」  薫の故郷は田舎で、そこら中に自然があった。だから薫が恐怖症を発症する前でも結構日常生活に影響があったのだ。一匹の虫なら平気だ。ただ、それが複数になると途端に怖くなった。    「やばいなぁ、普段から体内にいるとはいえ…いざコイツら目にすると気絶しそう」  「それは困ります」  理恵の声は冷静だ。 恐怖症の発症、発現は発症者の意識がある限り続く。つまり意識さえ奪ってしまえば、この――理恵曰く――集団幻覚は収まるのである。  蜘蛛たちは薫のくるぶしまで嵩を増している。皮膚に這い上ってくるのが気持ち悪い。全身から冷や汗がどっと噴き出る。理恵の冷静な顔が憎らしい。この蜘蛛たちは、人間を食うのだと知っているだろうに。  「いや」  薫は一旦首を振ってから、気を持ち直す。それに応えるように、蜘蛛たちも一斉に昭に向けて襲い掛かる。黒いさざ波は、あっという間に天井にまで届きそうな大津波にまで成長した。そのまま昭に覆い被さって…。  殺すな、と念じる。恐怖症は制御の利くものではない。人がなにかを恐怖することに理屈はなく、であるがゆえに制御などというものは存在しない。それでも、殺すなとそれだけは念じ続ける。目的は昭の意識を奪うこと、それだけ。  ぱんっと、大津波の一部が人型にはじけ飛んだ。ぱん、ばんっと破裂音を響かせて、昭に群がっていたはずの蜘蛛たちが宙を飛ぶ。  「対人恐怖症じゃなかった?」  「接触恐怖症とも言いました。最も、人以外が接触したのはこれが初めてですので」    弾き飛ばされた蜘蛛のいくつかが薫と理恵の頭上から降ってくる。ばらばら、ばらばら。いくつかが髪の中に潜り込み、わさわさと蠢いた。その悍ましさに意識が遠のきかける。  恐怖症の発症には大抵制限時間が存在する。自身の恐怖が目に見える形で発現するのだ、発症者の胆力次第でその時間は大きく変わる。恐怖に負けたらそのまま気絶するのがオーソドックス。  向こうは暴走状態。こちらは正気なだけに分が悪い。己の恐怖に長時間正気で向き合える人間は、そう多くない。    と、ずっとその場に佇んでいた昭が、一歩こちらに近づいてくる。さらに一歩、一歩、ゆっくりと。  相変わらず体は左右にゆらゆら揺れていて危うい。  まずいな、と薫は眉を寄せた。隣で理恵のしかめっ面も増す。彼女は耳に下げたインカムを押さえると、外部と連絡を取る。  「発症者が移動を開始しました。佑月薫が対応していますが、このまま止められるか…。逃亡される前に、救援を要請いたします」  「俺を見限るの早くない!?」  「発症者が外に出ればパニックになります。もし彼の症状が悪化し、誰かの命を奪う事態になったら取り返しがつきません」  発症レベル5。発症者が、その恐怖症により他者の命を脅かす状況。  「させない。恐怖は当人のものだ。自分の恐怖で他人を殺してしまうなんて、そんなことは絶対に駄目だ」  ――お前は、本当に怖がりだなぁ。  朗らかな笑顔を思い出す。頭を撫でる大きな掌が頼もしかった。  どんな形であれ、恐怖とはそれを抱えた当人にしか理解できない…当人の問題だ。それで他人を傷つけたり、まして殺してしまったり――それに勝る恐怖があるものか。  「俺の恐怖症も複合だ。  恐怖症恐怖症(Phobophobia)。本来は恐怖症を起こしかねない事象に対する恐怖症だが、俺の場合は恐怖症患者に対するそれ。  そしてだからこそ、俺は俺自身を恐怖する」  恐怖症恐怖症は、常に薫の内側で発症している。  合併症である集合恐怖症で生まれた蜘蛛たちが、薫の内側で生まれ、蠢き、増え続けているのがそれだ。薫に恐怖を、罰を与え続けるために。  だから、集合恐怖症を外側に発症するためには、自身の体に傷をつけて排出する必要がある。その分、恐怖症の発症におけるブランクは存在しない。即座に、自分の意思で発症を起こすことができる。それが薫の強み。  そして、もう一つの強みが薫を常に苛み続ける、恐怖症恐怖症なのだが…。こちらを外側に発症するには時間がかかる。普段自分に向けて発症している恐怖を表に出すために、集合恐怖症を先に出し切る必要がある。  恐怖症恐怖症は、一度発症すれば恐怖症患者に対してのみ、最強となる。自身の恐怖を発症する恐怖症患者。それを薫が恐れるがゆえに。  すでに体内の蜘蛛は出きっている。  「俺は、恐怖症患者が怖い。 ただなにかを恐れるだけなのに、人を傷つけ、あるいは殺してしまう」  薫もまた、ゆっくりと昭の方に近づいていく。  昭の足元に倒れていた警官に、昭の足先が触れて、その体が薫の方へと飛んでくる。  しかしそれは薫の眼前まで来て消え失せた。つい先程、吹っ飛んでくる前に警官が倒れていた場所に、再度その姿が現れる。  「た、た、た」  昭の唇が戦慄いた。焦点の合っていなかった目はいつの間にかしっかりと薫を見据えている。  「助けて」  こんなことがしたいんじゃない。誰かを傷つけたいわけじゃない。  怖かっただけ。ただ怖かっただけなのに。  「うん、知ってる。俺も怖いよ」  とん、と薫が昭に触れた。瞬間、薫の恐怖が昭に向けて発症する。昭の対人恐怖症、接触恐怖症。それが、昭自身に向けて発症された。  昭の体が弾け飛んだ。そのまま廊下の向こうまで飛んでいって、派手な音をたてて壁に激突する。その体は腐り落ちることはない。発症者自身が今の衝撃で気絶してしまったからだ。  そして、発症者の意識が失われれば、発症現象は収束する。 腐臭は消え、倒れていた警官たちは打ち身一つない元気な体を起こす。奥の教室の扉が開いて、昭と同年代らしき少年たちがおずおずと顔を覗かせた。  まるで、なにごともなかったかのような光景。恐怖症の発症が集団幻覚の一種とされる所以である。   「ご苦労様です」  理恵が近づいてきて、ねぎらいの言葉をかけてくれた。    「彼は目覚めたあと、記憶処理を受けるでしょう。普段から同級生からのいじめ、親からのネグレストを受けていたようですので、彼の恐怖の記憶を抽出したあと、子供を欲しがる家庭に里親に出すことになるかと」  「相変わらず、発症者の素性に詳しいね」  「家庭や学校で問題を抱える多感な時期の子供は、恐怖症を発症しやすいですから。常に可能性のありそうな対象には監視の目を光らせています」  だから、即座に学校内の生徒及び教師の退避ができた。  発症直後の発症者に対応ができた。  なら発症前に助けてやれよ、と薫は思う。  この国がなぜ恐怖症の発症者を求めるのかわからない。しかも、起こした事件はなかったことのように無罪放免だ。  ただし、恐怖症の記憶は消される。恐怖とは記憶と経験によってもたらされることが多い。であるがゆえに発症者から恐怖の記憶を丸っと消してしまう。昭のような家庭にも問題がある場合は、生まれてからの記憶も消して、全く別の記憶と入れ替えられることもある。  そうして恐怖の記憶が消えた発症者は、日常生活を取り戻す。自身が発症者だった過去すら知らずに。  いや、いま理恵は記憶の消去ではなく、抽出と言ったか?  「あなたもぜひ。恐怖症恐怖症の発症者は、今のところあなたしか報告がありません」  「誘惑しないでよ。  そりゃあ惹かれる、刑務所とは違う不便のない生活、殺してしまったことも忘れて、普通の学校に通って、普通に人生を謳歌できるだなんて。  恐怖症の発症者と向き合う恐怖すら、無くなるんだ。俺自身への恐怖も。  そうなったらどれだけ幸せかと、俺だって考える」  「では」  「それでも俺は、俺の恐怖に負けるわけにはいかない」  理恵は相変わらず無愛想に…しかしその表業が少しだけ緩んだように見えた。  「あとごめん。そろそろ限界」  そう言い残して、薫はその場で昏倒した。制限時間だ。薫の恐怖症はとにかく消耗する。常に己の恐怖と向き合うこのとき。自分が、兄を殺してしまった事実を強制的に見せつけられる時間なのだから。
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