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――薫、お前は本当に怖がりだなぁ。
優しい兄がいた。
田舎では、ちょっとでも弱みを見せると皆してそれを突いて、除け者にする。
山に入って虫取りもできない、蟻の行列すら怖がる薫は、いつも弱虫と馬鹿にされ、泣いていた。そんな薫を唯一の味方が兄だった。薫の弱さを認めてくれて、そうして虫があまり出ない河辺や家の中で一緒に遊んでくれた。
あの日、同級生たちは悪戯のつもりだったのだろう。昼食後、こっそりと薫の弁当箱の中に蜘蛛の卵をしこんだらしい。卵は弁当箱の中で孵化し、帰宅後に薫が弁当箱を開いた時、中から大量の、小さな蜘蛛が無数に這い出て来た。
薫の悲鳴に、兄はすぐに駆け付けてくれて。そうして弁当箱を薫の手から奪い、もう大丈夫だと笑ってくれて。
――なのに。
そこで薫の恐怖症が初めて発症した。
薫の掌、腕には小さな蜘蛛がまだ這っていて、わさわさと皮膚の上で蠢いていて。
そして、兄が持つ弁当箱の中からも、ぽろぽろ蜘蛛が落ちてくる。そんな光景に薫の恐怖が爆発した。
――おい、薫。大丈夫か?
――うわ、どんだけ出てくんだよ!?
――逃げろっ、なにかおかしい!!
弁当箱から無数に湧いてくる蜘蛛たち。どんどん、どんどん。それが兄の体にまとわりついて、あっという間に兄の全身は蜘蛛に覆われてしまった。
蜘蛛たちは、薫の恐怖に呼応してその凶暴性をあらわに、手っ取り早い獲物に襲い掛かったのだ。
暴れ、抵抗する兄は、蜘蛛の大群の前に無力だった。血があちこちから噴き出した。蜘蛛たちの合間から見える兄の体は、あちこち穴が開いて、それは赤黒い肉塊に見えた。
そうして潮を引くように蜘蛛たちが退がって見えた兄の顔は、そこには兄の顔なんかなくて。骨を露出した醜いナニか。ぶらりと垂れ下がった眼球がぼとりと落ちて、真っ黒な眼孔からも、蜘蛛が飛び出てきた。記憶は一旦そこで途切れる。
薫が再度目を覚ました時、兄の体は傷一つなく。蜘蛛の姿はどこにもなく。
けれども、兄の魂はその体に残ってはいなかった。
薫は目を覚ます。
固いコンクリートの壁、格子で覆われた出入口。どうやら気絶している間に刑務所の独房へと戻されたらしい。
この施設は刑務所であると同時に、恐怖症の研究所でもある。所長からして、恐怖症の発症者なのだ。
醜形恐怖症だという彼には、顔がない。顔のど真ん中に大きな洞が空いている。この男が、収容当時の薫に言った。
「思うに、この世界を今の形に作ったクソったれは、とっても慈悲深くて優しいやつなんだろう。
だって言うだろ? 『人の痛みを理解できる人間になりなさい』って。今の世界がそれさ。他人の恐怖、苦しみ、悲しみ。それをみんなが感じることができる世界。
いや素晴らしいねぇ。
今の世界を作った何者かが本当に存在するのかって?
だって私が子供の頃には、ただの恐怖症にこんな超能力めいた力はなかったよ。
集団幻覚ぅ? キミ、そんなの信じてないだろ」
その言葉を聞いて、薫は決めた。
兄を殺めた事実は消せない。まず、その記憶を消さない。
そして、こんな世界を作った何者かを探す。
恐怖とは、その個人が保有するものであり、個人の問題だ。それで他人を傷つけたり、ましてや殺したりする世界が、素晴らしいものであるはずはない。
だから、薫は記憶消去を跳ねのける。収容者として、恐怖症の発症者と対峙する日々を選ぶ。本当は社会貢献の面から、服役期間は短縮されていて、すでに出所していいことになっている。ただしそのためには記憶の消去が不可欠だ。
だが全ての苦悩からの解放、全ての罪から赦される道があるのだとしても。
薫は、その誘惑に負けるわけにはいかない。
薫の内側で、蜘蛛たちが騒ぐ。わさわさ、ざわざわ。脳裏には、蜘蛛にたかられた兄の姿が鮮明に残っている。薫はこれからも、自分に罰を与え続けるだろう。この恐怖と、戦い続けるのだ。
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