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高校二年生の小松田愛里(こまつだあいり)が彼と出会ったのは、愛里がバドミントン部を辞めたことがきっかけだった。高校入学から一年以上の間、帰宅時間が日が暮れきった後だったのが、生活リズムが変わり、愛里は夕方には自宅に着いていることが多くなった。
だから、彼…私立のものと思われる制服姿の小学生と、帰宅時間が被るようにもなるわけだ。
愛里が彼と初めて遭遇したのは緑眩しい初夏の頃、自宅の最寄駅を出て、五分程度歩いた地点でだった。
愛里の二十メートル前方の道路を、茶色いランドセルを背負った小学校中学年くらいの少年が歩いていた。シャツは白、帽子と短いズボンは紺、白い靴下に革の靴。
通学の電車内で、同じような恰好をしている子供を愛里は何度も見ていた。しかし、駅を降りた後の道で見かけることは滅多になく、庶民ばかりと思っていた家の近所にも私立に通うエリート子供がいたのかと、愛里はほんの少し珍しいものを見る目で少年の背中を眺めた。
歩く愛里とその小さな後ろ姿との距離は徐々に縮まっていった。両者が歩くのは、狭い幅に対して些か車の通りが多過ぎる道路。彼と平行に歩くとなると、いちいち車の通行を気にしなくてはならない羽目になる。そんなことは煩わしいと、愛里は一気に歩く速度を上げ、男子小学生を追い抜いた。
彼の前を三メートルも進んだところで、愛里は車道の端に身を寄せ、足を緩めて歩く速度を元に戻した。そうしたところで、彼女の左横を小柄な影が通り抜けていった。小学生の彼だった。
負けず嫌いの子だな。愛里はそう思いつつ、抜かされるままにしていたが、少年は愛里を追い抜いた途端、早歩きをやめた。そうなると、小学生の歩く速さと、つい最近まで体育会系であった女子高生の歩足。当然、すぐに愛里は彼に追いついてしまった。
彼の負けず嫌いを満足させる為に遅く歩いてやる義理などない。愛里は再び小学生を追い抜いた。そうすると、すぐに小学生は愛里を追い越しにきて…妙な状況になってしまった。
愛里は五歳は離れているだろう少年と張り合いたいなどとは全く思っていなかった筈が、通常の歩行をしているだけなのに勝手に勝負を挑まれ邪魔されていることが癇に触り、世の中の厳しさを教えてやろうと、早歩きで小学生を追い抜いた。だが、小学生の方も、もう半分走っているのではという歩き方で愛里についてくる。
いつ始まったかも定かでないデッドヒートは、駅から十分離れた赤信号の灯る横断歩道まで続いた。
その日以降、愛里は週に二、三回、その男子小学生と謎のレースで競うことが習慣になってしまった。
戦いは、どちらかがもう一方の背中を確認したところから始まった。早歩きで競り合い、ゴールは双方の帰宅の別れ道である横断歩道の前。その間十人以上すれ違う通行人たちに二人の関係をどう思われていたかは知らないが、二人はただレースを繰り広げるだけで、言葉も交わさず、顔を見合わせなかった。ただ、戦いの始まりを知らせる背中だけは、お互いのものをよく認識できていた。
夏休み間近の、七月のことだった。蒸し暑さでバテきっていた愛里は、不調なコンディションではあまり見つけたくなかったランドセルを背負った背中を、その昼下がりの帰路にも見つけてしまった。
今日は、レースは勘弁してほしい。戦いを避ける為に、駅前の本屋で涼んで行こうか。愛里が本屋の入口に足を向けると、自動ドアの向こうから小学生の女の子が本屋のビニール袋を抱えて現れた。その子が頭に被る紺色のフェルトの帽子は、後ろからなら幾度も見た覚えがあった。
「吉岡くん、行こう」
女の子は、愛里の前方にいた自分と同じくらいの身長の男子小学生に、声を掛けた。男子小学生が女の子に頷いたのを合図に、二人は並んで歩き始めた。その速度は、いつも彼が一人で歩いているよりもずっと遅かった。
やれやれ、今日は不毛なレースをしないで済みそうだ。ジュース代もケチりたかった愛里は早歩きすることなく、ごく自然に小学生二人に追いつき、追い越した。その後で、少年は自分を追い抜きにかかってくるかもしれないと思ったが、やはり、その日の彼はそんなことはしてこなかった。
もしかして、後ろにいる彼は遠ざかっていく見慣れた背中を指差し、「あれ、大人げない高校生」と、隣を歩く女の子に説明しているかもしれない。もしそうなら、ちょっとムカつくなと愛里は思った。でも、もしそんな説明すらしてくれていなかったら、ムカつくどころか淋しいなとも思った。
振り返って、顔を見てやろうか。愛里はそんなことも考えたが、それはあまりに大人げないだろうと、やめておいた。
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